いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。(4)
主を喜ぶ者は、日々イエスさまの十字架の赦しを喜んでおり、生きて働くみことばに信頼して生きていて、復活の望みに満ちて生きる。
パウロが、感情である「喜び」を二度も命じていることはなんか面白いが、意識していなさいということだろう。
あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。(5)
寛容な心は、キリストの十字架の血潮を分かち合って、互いの欠けを覆い、たまわった恵みを共有するたまもの。寛容があればそれが人であっても、国であっても、憎しみは存在しない。寛容の心は訴えられても仕返しはしないのである。
何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。(6)
思い患いは感謝を消して、「あなたの信仰のようになる」という結果をもたらせる。
イエスさまによって、永遠のいのち天の国籍を持つ者が、移ろう世の事で恵みを忘れるのは、みことばを蔑ろにしていることである。
日々御前に出て、すべての思いも願いも親しく話す子であれば、なんの患いも後に残さないのである。
そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(7)
キリスト者は、全知全能の神と交わる特権を与えられている。イエスさまは、私たちがどれほど長い時間を、御前に話し続けることも許し交わりを喜んでくださる。慰めて、知恵あるみことばを思い起こさせ、生きる力に満たしてくださる。
最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。(8)
すべての真実なことは、みことばであり、
尊ぶべきことは、御子のみわざであり、
正しいことは、父なる神のご計画であり
きよいことは、聖霊の導きであり、
愛すべきことは、主にある神の家族キリストの教会である。
すべての評判の良いことは、賛美、祈り、主に在る交わりであり、異言や霊の祈りであり、みことばを語り合うことである。
その恵みに浸って備えられた時、主は世に対する必要をも満たして、良い行いを導いてくださるのである。