石ころ

愛の本質



 「病気」って調べると、「苦痛や不快感を伴い、健康な日常生活を営めない状態」と出た。
主人はこれらに当たらず、何も不自由はない。けれど一年間検査、検査に明け暮れて、結局手術まで・・。これは今日主人の口から断ってきた。

主人の病気は、検査データという数字であり、CTやエコーやPETなどの映像上でのことで、それが病気を証明していると言うけれど・・。本当にそれは将来を脅かすのだろうか?その将来とは何時のこと?

生きている体は絶えず変化していると思う・・人それぞれに違いもあろうし、一喜一憂する度に癌が発生したり消えたり・・そんなことを日常茶飯事に繰り返しているのじゃないだろうか・・。
私の理屈はこうだから、病院ではなかなか話がなかなか飲み込めなくてとても疲れる。


 今日は3人の先生とお話して脱力感でへたり込むほど疲れた。なぜ、こんな無駄なことをしなければならないのか・・。
いや、それは、初めから覚悟していることであった。すべては主人の納得のために踏んでいる手順であり、主人にとっては「病気だ」と言われることは脅威であろうから、「怖がらなくても良いよ。」と一緒にいるのである。


 神の御子であるイエス様は、私の罪の身代わりに十字架で死刑という刑罰を受けてくださった。
いったいこの私になんの価値があろうか・・神の御子どころか、誰であっても私の為に死ぬなんて、そんな引き合わぬ愚かなことはないのである。それはまったく無駄なことである。

その愚かな無駄なことをイエス様はしてくださった。なぜか・・なぜなのか・・ずっと問い続けてきたことである。
ただ、「愛」とはそういうものだった・・。それは理屈も理由もなくそういうものなのだろう・・。


 長男が仕事を終えて遅くに着いた時、風呂から上がるのを待って、胸に溜まっていたことを話すことができた。
メールでは直接病院に行くとあったので、話す間もないだろうとあきらめていたから、その時間はとても嬉しくホッとする時だった。
嫁さんが「前日に行って話を聞いた方が良い。」と勧めてくれたのだ。彼女の気遣いが嬉しかった。

次男は休みを取って京都へ連れて行き、昔懐かしい多くのものを見せてくれた。鴨川であり、木屋町の柳や桜であり、唯一の少女時代の華やぎである「中原淳一」展だったり・・。
「ゆっくり、見ろ」と荷物を持ってくれたので、のびのびと好きなだけ楽しむことが出来きた。それは窒息しそうな日々から解放されて、深呼吸したような一日だった。

主人は「行ってこい。教会は俺に任せておけ」とひとりで礼拝に行き、迎えに来て「良かった。良かった。」と私の話を喜んでくれた。
何処に行っても親切を受けた。見ず知らずの人にまで細やかに優しくされた日だった。


 ああ・・って、少し主の意図が見えて来た気がした。
私は、早くに親を亡くし、祖父母を亡くし、ひとりで生きてきたようなものだった。だから、愛の経験がとても貧しい。主は今、それを教えてくださっているのではないか・・。
「受ける愛の味わい」と「差し出す愛の味わい」を知れと。

わけのわからぬ主人の癌騒動は、苦しむ主人を看る事ではなく、無意味に思えることにも寄り添う、愛の本質を教えてくださっているのだろう・・。それは私の知らない世界だったから。


 手術をしない代わりに、明後日は遠くの病院までPET検査を受けに行く。二人で何だかんだと言いながら一日かけて行くだろう・・。その元気と、その必要が満たされていることを喜びながら、差し出す愛の味わいを体験しよう。
主が私たちに掛けてくださっている手間暇を覚えつつ・・。

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