石ころ

イエスは涙を流された




イエスさまが、ラザロを生き返らせるために来られた時、死を嘆き悲しむ人をご覧になって涙を流された。
イエスは涙を流された。(ヨハネ11:35)

キリスト者なら、死んでなを御国で再会することを知っている。それでも家族や友人の死に、取り乱すほどの悲しみ辛さを味わうことも事実である。

イエスさまが、主人を死の間際まで痛むことなく、苦しまないように御側に召してくださったことに私は深く感謝していた。
それでも霊柩車の中で、運転手に気付かれまいと声を殺しても、抱えた遺影に流れる涙は止められなかった。

心が乱れていて思いと言葉や行為がちぐはぐであったり、死が悲しみだけではなく、怒りや嘆きはキリスト者にもあることも経験した。
ただ、絶望はない。すべての感情の静まった心の底に、信仰による希望は平安を伴って輝いている。

そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて(ヨハネ11:33)

人は死ぬ者として造られたのではなかった。イエスさまの涙には死を持ち込んだ罪への憤りがある。
だから罪のないご自身の命と引き替えに、イエスをキリストと信じる者には、ラザロにはるかに勝る永遠のいのちをプレゼントしてくださった。

こういうわけで、ちょうどひとりの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、ひとりの義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられるのです。(ローマ5:18)

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