昨日は、開いたドアから飛び出して走るつもりが、降り立った足にまったく力が入らず、そのままたたらを踏むようにホームに転がってしまった。恥ずかしいよりも、自分の体を自分の意志で支えられないことの怖さを思い知った。
膝小僧を見て「ズボンが破れていない」とほっとし、立ち上がってみるとしっかり立つことも出来たし、痛みもなくて、投げ出されたリュックを背負い直して、声を掛けて下さったおばあさんに頭を下げ「大丈夫です。おおきに!」と言って、乗り換えのホームへと階段を駆け上り無事に乗り換えに間にあった。
電車の中で、次の乗り換えにちょっと恐い思いが頭を過ぎったとき、
「主が~わたしの手をとって~くださいます
どうして~こわがったり~逃げたりするでしょう~」
賛美歌が心の中に広がった。「ああ、そうか!」今も、真っ逆さまに倒れはしなかった。ちっとも怖がることはないと平安が戻ってきた。
でも、今日は初めから体がなんだか頼りなくて、足にも、ずうっと違和感があった。私の怖がるべきはこのこと。
最近、血圧が不安定であり、でも何かと忙しくちょっと疲れ気味だったから、何もしたくなくてウオーキングも怠けていた。そのことがきっと禍しているのだろうと、主がそのことを警告されたのだろうと気づいた。
メッセージで語られた言葉の中に、私たちが失敗をして低いところに落ちても、主はもっと低いところに降りてくださって、私たちの失敗を受け止めてくださると語られていた。私が転んだとき、主はもっと低くなって私の体を受けて下さったのだと、嬉しさと平安が静かに心に満ちた。
だから、今日はいつものウオーキングコースを歩いた。カラッと青い秋空を見上げつつ、なだらかな坂道を登って行った。年を取るとちょっとしたことで体はガタンと弱る。自分を甘やかさないようにしなさいと言われたような気がした。
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