けれども、私はイエスさまのその十字架を知らない。どれほどのイエスさまの苦痛が支払われたのか、痛みが支払われたのか、そのことを私はまったく知ることができない。
罪の中に生まれて、罪を持って生きている私には、罪をまったく経験されたことのないお方イエスさまに、私の罪がどれほど深い痛みとなったのか、どれほどそれはおぞましいものであったのかを想像することは出来ない。
まして愛する御父に、身代わりに負った罪ゆえに捨てられなければならなかった時の恐怖を、どうして私なんかに想像することができるだろう・・。
御父の悲しみも、御子の苦痛も、私は何も知らないで、脳天気にその実を日々食しているだけ。
でもね、妻が苦痛の中で子を産むとき、たとえどれほど側にいても夫はその苦痛を知ることはできない。彼に出来ることは妻と共に、生まれたいのちを喜ぶこと。共に育て、その成長を共に喜ぶこと。妻にとってもこれこそが、産みの苦しみに報いてくれる一番のことであるから。
主の十字架を私は知ることはできないけれど、主が与えてくださった新しいいのちの日々を単純に喜んでいる。絶えず思いの中で祈り、主との交わりに居らせて頂いている。だから今は、すべてのことを無条件に感謝せずにはいられない。
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