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石ころ

十字架の重さ

 イエスさまは十字架を負ってくださった。神様の私たちへの良きご計画の成就のために。イエスさまが私の身代わりとして、罪を負って罰せられてくださったという、その十字架の事実を信じた時、私は、造り主である父なる神様に「お父さん」と祈ることで出来るという驚くような交わりを知った。そして、サタンに過去や今日の罪を責められ、どうにもならなくて罪の中に縛り付けられている自分自身というものから解放され、私の良心が責める痛みからの回復も頂いた。

 けれども、私はイエスさまのその十字架を知らない。どれほどのイエスさまの苦痛が支払われたのか、痛みが支払われたのか、そのことを私はまったく知ることができない。
罪の中に生まれて、罪を持って生きている私には、罪をまったく経験されたことのないお方イエスさまに、私の罪がどれほど深い痛みとなったのか、どれほどそれはおぞましいものであったのかを想像することは出来ない。

まして愛する御父に、身代わりに負った罪ゆえに捨てられなければならなかった時の恐怖を、どうして私なんかに想像することができるだろう・・。
御父の悲しみも、御子の苦痛も、私は何も知らないで、脳天気にその実を日々食しているだけ。

 でもね、妻が苦痛の中で子を産むとき、たとえどれほど側にいても夫はその苦痛を知ることはできない。彼に出来ることは妻と共に、生まれたいのちを喜ぶこと。共に育て、その成長を共に喜ぶこと。妻にとってもこれこそが、産みの苦しみに報いてくれる一番のことであるから。

 主の十字架を私は知ることはできないけれど、主が与えてくださった新しいいのちの日々を単純に喜んでいる。絶えず思いの中で祈り、主との交わりに居らせて頂いている。だから今は、すべてのことを無条件に感謝せずにはいられない。

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