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石ころ

一つ



 イエスさまは十字架を前にして世に残す弟子たちと、後に宣教のことばによって救われる私たちのために祈って下さった。その祈りの中にある「一つ」というとこば・・

「わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。」(ヨハネ17:11)

この「一つ」とは、父なる神と子なるイエス・キリストの完全な一致、それほどの一つ。
そのような関係を、人は誰も経験したことがないだろう。罪のある身には、そのように一致する事はないだろうと思う・・。

 確かに人だって皆で一緒に、ワッショイワッショイと一つになることは好きである。バベルの塔だって人は一つになって「われわれの名」をあげようとした。
国が一つになって応援をするオリンピックや、博覧会や宇宙科学を競うときも皆で一緒に喜び合ったりもする。

戦争は一つを強要するし、あらゆる宗教も一つになって、教祖や、団体の名を上げようと立派な組織を建て上げる。
人が一つになるときには何かの目的があり、その目的に向かって一致している。それは綺麗に覆われていても、探れば大概人の欲望が見えてくる。

 主の祈られた「神の一つ」が、これらの「人の一つ」と同じわけがないと思う。
私たちはイエスさまの祈りによって、悪から守られ、愛の中に保たれているのであって、私たちの行いによるのではないように、
父と子の神が一つであるような、人には知りようもないほどの「一つ」は、ただ、イエスさまの祈りによって完成し、すでに備えられているものなのだろう・・。

確かに・・出会ったばかりの人に、なんとも懐かしくも慕わしいキリストの香りを感じて、無条件に心を開き、霊の深い交わりに憩うことがあるけれど、それはきっとイエスさまが祈り備えてくださった「神の一つ」なのだろうなぁ・・。


「わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。」(ヨハネ17:23)

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コメント一覧

石ころ
meekさんコメント感謝いたします。
私は、パウロとバルナバの関係には嘘や、取り繕いや、馴れ合いなどが無かったことで、その関係が成長することができたのではないかと思っています。

主にある兄弟姉妹の関係は、聖霊の導きによって時間を掛けて、育てられて行くのではないかと思います。
meek
こういうのもあるかもしれません。深い痛みによって引き裂かれ、人間的には到底ひとつになれないような関係から、超自然的に、奇跡的に和解がもたらされ、ひとつにされてゆくような。

ヤコブとエサウの和解とか、ヨセフとその兄弟の和解とか、パウロとバルナバが別れる原因となったマルコが晩年のパウロの役に立つ人に成長したこと、とか、滅ぼされてしかるべき私たちにも関わらずに、痛みを貫いて愛し通してくださって、赦してくださったイエス様の愛のように。
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