買い物をしていると、こちらに歩いてこられる人の中に親しい顔を見て、互いに笑顔で「お久しぶり!」と言うことになった。
彼女とは聖書を開いて向き合った仲。それももう10数年になるかな・・断続的にそんなことが続いている。彼女の気の向くままに・・。
最近ちょっと気になっていて、何か信号を送ってみようかな・・と考えていた所だった。でも、彼女は意外なことを言った。
「一度私の家に来て欲しい。何時もいつも、私は一方的にしてもらってばかりで・・、それって気がしんどいことでしょう・・」と言う。
「つまり借りを返したいと言うこと?」
「えっ・・」それから彼女は大笑い。
「だから、家まで取りに来いってこと?」再び大笑い・・。
でも、行く約束はしなかった・・。
私はイエスさまを伝える事以外は、彼女に何もして上げた覚えはない。イエスさまを伝えることは、むしろ貸しではなくて私には借りなのに。
また、彼女にとっては絶対に返し得ないのが福音。どんなにしんどくても受け続けることが、救いの条件なのだから。
イエスさまの十字架の恵みを、どのような代価を持って支払うというのか・・。
親切なら彼女のしたいことを受けて、それから事をわけて話すことで次に進むのかなぁ・・。
でも、私の中で何かが「違う」と言う。それはむしろ回り道だと・・、曖昧の中にすでに何年も経ってしまった。
電話があったら、「待っているから来てね。続きをお話しするから。」と言うことにしよう。
信仰のことは、ことをわけて話して分かることではないから。渇いていたら、たとえどのような理由があっても来ることになるだろう。
何時も、例え夕食前であっても、彼女が来られたら喜んで聖書を開いて来た。祈りつつ待とう、それで良いのだと思う。
私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。(ローマ1:14)
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