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石ころ

なぐさめの花

 高砂百合が今年も庭に咲いた。この百合は夏の終わりに咲く。庭の片隅に植えたものが、勝手に場所を選んで芽を出し咲くようになった。
きちんと植えられている庭も勿論良いけれど、「あれっ」と思うところに芽を出し、気ままに咲いている花も私は大好き。草を引くとき気をつけて、花の芽と思うと引かないようにしているから、家の庭はあまり垢抜けない・・。草引きをしてもすっきりとはしない。

 茗荷は残して、フシグロセンノウらしいからこれも残して、苔を引かないように気をつけて、シダもある程度残して、こんなところにエビネが出てきているこれも引かないで。千両や万両がまた、増えているけれど・・と悩んで残して、リュウノヒゲも増えたようだ・・。とか、クマガイ草の芽らしいから引いては駄目。これはハーブだからある程度引くけど残して・・・。

そんな風な草引きだから、時間の割にはかどらず、どこの草を引いたのか説明をしないと分かってもらえないような優柔不断な庭。でも、こんな小さな小さな日当たりの悪い庭でも、私に季節を楽しませてくれる。

木蓮の花、山茶花の花、椿も咲く、紫陽花も・・・いろんな季節ごとの花を見ることは大好き!苔の緑も大好き!ゼニ苔のような悪い苔とずいぶん戦って守ってきた。一輪どこからか来て咲いた小さな花も嬉しい。けれど、実は茗荷や百合のように食べられるものもとても嬉しい。

「今年はヤマユリが咲かなかったね」と主人に話すと「お前、去年の暮れに掘って食べてしもうたやろう」と言われ、「そう言えば茶碗蒸しに入れたような・・」と大笑いしたこともある。今も食用になる百合が一本ある、心の中で何かの時に使ってやろうかと・・・、たくさん花が付いているからきっと大きな球根だろう。でも、高砂百合は食べられないから、我が家にいても何時までも無事である。

息子が写真に撮った翌日にはほとんど散ってしまった。まるでこれで役割は終わったというように・・・。だから花は愛おしい。一瞬にも一生懸命自分の仕事をしている。神様が私たちに慰めとして備えてくださった花々は、ささくれた心を癒して柔らかくし明るくしてくれている。


「ゆりの花のことを考えてみなさい。どうして育つのか。紡ぎもせず、織りもしないのです。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。」ルカ12:27

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コメント一覧

石ころ
野の花
 実は、食べてしまったのはヤマユリです。とても香りが強くてちょっと閉口していました。(食べたことの言い訳みたいですけど・・)
でも、ヤマユリも夕暮れの山の中で、香りに誘われて見つけたときは、その香りもちっとも嫌ではありませんでした。神様はそのように自然に置かれたのだと思います。

 この高砂百合は香りがありません。初めは「あれっ」と思いましたが、狭い庭でも気にならなくて好きです。よくお葬式使われる、山のような無表情な百合を見ると、花が可哀想だと思ってしまいます。私のお葬式には、神様が咲かせてくださった一本の野の花があればいいと思うのですが・・(これはわがままです。)

 野の花、それはとても贅沢なのですね。神様が一本一本にいのちを与えて咲かされ、それぞれ豊かな表情がありますから。
Salt
みことばがしみます
百合は個人的には,そんなに好きな花ではありませんでした。例えば,教室に百合をかざっても,ちょっとキツイ感じがして和まないんですね。

でも,こうしてひっそり庭に咲く百合や,野辺にポツンと咲く百合はきれいですね。周囲の風景や環境との調和ということが,その花自体の個性や役割を引き立たせるのでしょう。

ただ切ってきて花瓶に植えるという行為が,百合の本当の美しさを殺していたのです。

引用聖句はルカですが,マタイの方を見ると,「野の百合」となっています。また「野の草」(マタイ6:29~30)

「野」ということがポイントなのでしょう。何かのためではなく,ただ置かれた場所でいのちを咲かせている。一方ソロモンの栄華は見栄を飾るためのものです。



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