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石ころ

宿題 (使徒20章)

メッセージの最後に宿題を出された。ひとりひとりがもう一度、自分で使徒20章を読んで主から直接聴くようにとのことだった。

 パウロは「御霊に縛られて・・」と書いている。キリスト者の自由とは、御霊を否むか、従順するかなんだと思う。力のようなものを求める人は多いけれど、御霊に縛られることを求めることこそ必要ななのだと思う。パウロの力は御霊に縛られることから出たのだと思う。だから彼はどんな用い方をされても安全なんだ。

 彼は人を蘇らせたけれど自分の死は知っていた。人を癒すことが出来たけれど、自分は癒されないことを知っていた。そんな彼は誰よりも、その力がどこから出ているのかを知っていたと思う。

 ある礼拝後の交わりで、パウロの前掛けで人が癒された箇所を、「パウロがそんなことを始めたのは、どんな動機からだったのかしら・・」と、教会の姉妹方と話し合ったことがあったけれど、パウロが、自分ではなく主が何でも用いることが出来るお方だから、ということから始まったとしたら、パウロの謙遜から始まったことかも知れない・・そんなことも考えた。

 パウロから力が出るわけじゃないけれど、主にはパウロを連れて行く必要があった。パウロの同意と彼の存在が主には必要なのだ。それは私たちにも同じだから、その存在の意味は揺れることのない生きる望みになると思った。

 私たちは救われ、主の元に上げられそこから遣わされているという。そして、今置かれている場所は、主の競技場、私は真剣にゴール目指して走るアスリートであると・・。
主の置かれた競技場を見失って、この世のなかで空を打つような戦いをする者ではないんだ。なにしろ御子の血が支払われ買い取られて救われた者だから。パウロのようでありたいではなく、イエス様を見上げて自分のコースから逸れない走りをしたい。御霊の縛りの中にこそ、その秘訣があると思うから祈ろう。

 
「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」ピリピ1:21

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コメント一覧

石ころ
アスリートだから・・・
 礼拝後交わりの中で、私たちは主の競技場をすぐに見失ってしまう者であると聞きました。アスリートが競技場を見失ってしまっては迷うばかりですね。

 イエス様から目をそらさないで居なければならないと思います。それにはやはりみことばですね。
私はエペソを読むように勧められ、今、感謝をもって主を味わっています。
ラベンダー♪
使徒20章
この箇所(特に22節から)を読むと涙が出てくるのですが、
とても励まされもします。
自分の置かれた場所に嘆くことなく、
パウロのように走るべき行程を走り尽くしたいです。
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