パウロは「御霊に縛られて・・」と書いている。キリスト者の自由とは、御霊を否むか、従順するかなんだと思う。力のようなものを求める人は多いけれど、御霊に縛られることを求めることこそ必要ななのだと思う。パウロの力は御霊に縛られることから出たのだと思う。だから彼はどんな用い方をされても安全なんだ。
彼は人を蘇らせたけれど自分の死は知っていた。人を癒すことが出来たけれど、自分は癒されないことを知っていた。そんな彼は誰よりも、その力がどこから出ているのかを知っていたと思う。
ある礼拝後の交わりで、パウロの前掛けで人が癒された箇所を、「パウロがそんなことを始めたのは、どんな動機からだったのかしら・・」と、教会の姉妹方と話し合ったことがあったけれど、パウロが、自分ではなく主が何でも用いることが出来るお方だから、ということから始まったとしたら、パウロの謙遜から始まったことかも知れない・・そんなことも考えた。
パウロから力が出るわけじゃないけれど、主にはパウロを連れて行く必要があった。パウロの同意と彼の存在が主には必要なのだ。それは私たちにも同じだから、その存在の意味は揺れることのない生きる望みになると思った。
私たちは救われ、主の元に上げられそこから遣わされているという。そして、今置かれている場所は、主の競技場、私は真剣にゴール目指して走るアスリートであると・・。
主の置かれた競技場を見失って、この世のなかで空を打つような戦いをする者ではないんだ。なにしろ御子の血が支払われ買い取られて救われた者だから。パウロのようでありたいではなく、イエス様を見上げて自分のコースから逸れない走りをしたい。御霊の縛りの中にこそ、その秘訣があると思うから祈ろう。
「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」ピリピ1:21
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