家族に説明することは不可能だったから、私はすべてを主にお任せした「後は宜しく」。いつでも私は主の奴隷であり、家族の奴隷ではないから、主に拠って行動するのだから、主に向かって「後は宜しく」と言う。きっとこの世の終わりにもこう言うだろう。そしてなんら思い残すことなくさっぱりと逝くだろう。体は苦しみもがくかも知れないけれど・・。
息子とは結構ベタベタとしている方だと思う。時にはゲームの解き方に盛り上がったり、ケーキをねだったりそれを今は楽しんでいる。いつでも「後は宜しく」と去ることが出来る自由があるから。
母教会を出て自立を学んだ。みことばの深さも教わって、幾らかは自分のものにできるようになったと思う。何より、主に従った喜びがある。
昨日、家庭で行われた日曜礼拝の後の雑談で、息子に対して「お母さんが教会を変わったことで、何か変化を感じますか。」という問いに「別に・・お母さんは、お母さんだから」と答えていた。
愛想のない答えだけれど、後で考えてやはりそうだろうなと思った。私が今どんなに恵まれているといっても、日常の平凡な時間がそんなに変化することはないから。
いや、むしろ超平凡な時間を楽しんでいる。忙しさや、やっかいな事柄が次々と在るのに、共にいて下さる御方を意識して居るだけで、穏やかに淡々とすべては消化されて行く。
それはとても普通で、父は父として、母は母として、子は子として共に居て、嵐の目の中では嵐を感じることも、嵐から守られていることさえ感じることがないように、極々普通に過ぎて行くのだから。
「あなたがたは、代価をもって買われたのです。人間の奴隷となってはいけません。」(Ⅰコリント7:23)
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