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石ころ

変化

私は4年前に母教会を出て今の教会に移った。saltさんは「来なさい」とはひと言も勧められなかった。でも、私はみことばと、目に見える母教会の状況によって追いつめられて行った。最後には自分の責任に置いて、家族を残してひとりで出て行った。

家族に説明することは不可能だったから、私はすべてを主にお任せした「後は宜しく」。いつでも私は主の奴隷であり、家族の奴隷ではないから、主に拠って行動するのだから、主に向かって「後は宜しく」と言う。きっとこの世の終わりにもこう言うだろう。そしてなんら思い残すことなくさっぱりと逝くだろう。体は苦しみもがくかも知れないけれど・・。

息子とは結構ベタベタとしている方だと思う。時にはゲームの解き方に盛り上がったり、ケーキをねだったりそれを今は楽しんでいる。いつでも「後は宜しく」と去ることが出来る自由があるから。

母教会を出て自立を学んだ。みことばの深さも教わって、幾らかは自分のものにできるようになったと思う。何より、主に従った喜びがある。
昨日、家庭で行われた日曜礼拝の後の雑談で、息子に対して「お母さんが教会を変わったことで、何か変化を感じますか。」という問いに「別に・・お母さんは、お母さんだから」と答えていた。

愛想のない答えだけれど、後で考えてやはりそうだろうなと思った。私が今どんなに恵まれているといっても、日常の平凡な時間がそんなに変化することはないから。
いや、むしろ超平凡な時間を楽しんでいる。忙しさや、やっかいな事柄が次々と在るのに、共にいて下さる御方を意識して居るだけで、穏やかに淡々とすべては消化されて行く。
それはとても普通で、父は父として、母は母として、子は子として共に居て、嵐の目の中では嵐を感じることも、嵐から守られていることさえ感じることがないように、極々普通に過ぎて行くのだから。


「あなたがたは、代価をもって買われたのです。人間の奴隷となってはいけません。」(Ⅰコリント7:23)

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コメント一覧

石ころ
お証感謝します
 おっしゃることはよくわかるつもりです。主は、決して見捨てたまわない御方であり、そのことによって、私も主の忍耐を今日まで受けてきた者です。

 私の場合は何よりも、みことばがおろそかにされていたことに居たたまれなかったのです。
内なる聖霊が否むとき、其処は私には地獄になります。それでも、しがみついていると、私の家庭にもいろいろな軋みが出てきます。まず、平和がなくなり、平安がなくなります。家族揃って教会に通っているのに、その中身がガタピシしてきました。

私にとって家庭はとても、とても大切なのです。大切だからその時家族を捨てたのです。数ヶ月後彼らもその教会を出ました。なんだか自然にそうなったのです。
主人は、私が理屈っぽいことを言うのを嫌う人ですので、今だに何の説明もしてはいません。

でも、今の家庭の平和から何かを分かっていてくれると思います。今は、朝ごとにみことばを開いて、私と、また時々ひとりで祈ってイエスさまにつながっています。主人が私のわがままを見逃してくれたことに「借り」を感じています。

 
 何処の教会に行ったから良いという問題ではないと思います。どの方から教えを受けたから安心でもないと思います。その時、導かれる聖霊にどのように応じるかという問題だと思います。本人にはそのことが明確にわかると思います。主は忍耐強く、決してあきらめることなく導いてくださいますから。
それでも、やはり出るという決心は、主の責任ではなく、私の責任でしたことだと思っています。私の中にあるものを少し知っているからです。

 私は母教会をとても愛していました。誇りでもありました。そして、なによりみことばを1から教わり洗礼を受けたところです。深い思いもあります。その間に何人も変わられた牧師先生の中でも、初めに教わった方にはみことばの基礎を育てて頂いたという感謝は変わりません。

今も、時々その懐かしい建物の前を通るのですが、牧師に出会ったら頭を下げて通ります。子ども達を見たら大きくなった姿に懐かしく思います。でも、そのことは信仰とは何の関係もないレベルのことであって、もう、今では二度とその建物に入りたいとは思ってはいません。ひと言も争うことなく出たのですが、私の痛みが大きくまったく癒えては居ないからです。

ある信仰を批判することによって、自分の信仰の正しさを証明することはできないと思います。私たちはただ、主に導かれて歩むというモデルを示して行くことがすべてだと思います。私たちの言葉で伝えられることではないので、ひとり一人に主が語ってくださる他ないと思っています。
愛知県のさっちゃん
私の場合・・
>目に見える母教会の状況によって追いつめられて行った

主の導きは実に色々な面がありますね。
私自身も、御言葉にカラカラに飢え渇き、ネットを通してキングダムのメッセージに触れ、キリスト教からいのちへの転機が訪れました。そして母教会を去ろうとしました。
ところが主はそんなわたしに一言。

 「あなたがたは、あわてて出なくてもよい。逃げるようにして去らなくてもよい。主があなたがたの前に進み、イスラエルの神が、あなたがたのしんがりとなられるからだ。 」
   イザヤ52:12
こんな御言葉があったのかと、驚きに包まれました。
 主がそうおっしゃるのでしたら・・・、出ることは止め、ととどまりました。それに出ようと思えば、いつだってできる。
確かにそこに居続けることの苦しみはあります。しかし、時はたち、今、その理由が私のうちに明らかになってきています。

 「あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。 」

私の場合は、そこにとどまることを通して、光を灯し、〔もちろん私の光ではなく、うちに生きるキリストの光〕いのちを注ぎだす場として、与えられた場所でした。

 そして、そこにとどまることを通して、キリストの痛み、涙を肌で感じます。そして私自身も、恵みによって知らされたに過ぎない者。そうでなければ、彼らの状態となんら変わらなかった。
キリストがここにおることを願われているなら私が去ることなどできませんでした。

 確かに、キリスト教という宗教には人間のわざに満ちています。いのちとはなんら関係のないものに・・溢れています。
 それらに対する批判も間違ってはいません。
・・が、
そんな世〔教界)に神の子が真っ只中に来られ、ご自分の罪として全て受け止められ、十字架を背負われた。
 あちら側の世界と線を引かれることなく、こちら側に来られたということです。ゆえに、キリスト教コテコテの私のようなものがいのちに移されたのです。

 批判は外からするのはたやすいことかもしれませんが、生けるキリストのいのちだけが、その間違いに光を与え、いのちだけが間違いであることへの確かな批判?として証されるものだと信じています。

 主はすばらしい方。とどまることで孤独すら感じていた私に、いのちにある姉妹を、あちこちから与え続けてくださいました。

 そして、何よりも励まされたのは、教会の牧師婦人が確かに変えられ、いのちの信仰へと導かれ、一人の姉妹として交われる恵みが与えられています。

 
 
石ころ
心からおめでとうございます
奥様のお証をとても感動して聞かせて頂きました。
「人の伝手ではなく、主の伝手によって決めた結婚」
その祝福を、息子にも分かち合ってくださって本当に感謝しています。

主という基礎の上に築かれた家庭、岩の上に建てられた家ですから、もう生涯のすべては準備されていますね。

kojiさんちの教会のことお祈りしています。


Koji
ありがとうございました
昨日は、ありがとうございました。
今朝、ピレモンへの手紙を読んでいたら「家の教会」と言う言葉が出て来ました。「昨日は、本当に家の教会だったなー」と反芻しておりました。少々、嬉しくてしゃべりすぎたかと反省しております。
願わくば最盛期の吉野の商店街にも行ってみたかったなーとも思います。
息子さんの写真も楽しみにしております。今後ともよろしくお願いいたします。
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