彼女は、この間の我が家での日曜礼拝に出席できなかったことを残念がっておられた。その日彼女は、みことばの許しを得て大きな舞台で踊って居られた。
先週お会いしたときは、来週先生が来られると知って会えずに残念だと、ちょっと落ち込まれたけれど、「踊るのに時があり・・」というみことばによって安心して行かれた。
その時、「今は、会う時ではないと思っておけばよいの?」そんな風に言われたので、私は慌てて聖書を開き、みことばによって確信を得るのだと話した。それに、「イエスさまはいつもいつもあなたと居てくださるのだから、それで十分なのですよ。」と話した。もちろん聖書を正しく語ってくださる方に良く聴き、教えを受けることは重要だけれど、まずは、頼るべきお方はどなたであるかをしっかりと知って欲しい。
彼女の良いところは、どんな時も「祈って欲しい」などと頼まれないこと。自分で「お祈りをしていた。」と言われ、「あなたが、祈っていてくれはることはわかっていたから・・」といわれることはあるけれど・・、そこには、まずイエスさまに対する信頼があるから、「自分がどうか」とか、「祈り方がどうか」ではなく、「イエスさまはどういう御方か」という信頼を持って居られる。このことをとても大切にしたいと思っている。
彼女はいろんな時に、友達にイエスさまの事を話すようになったと言いわれる。
「キリストさんを信じていると言ったら、『そんな十字架で殺されはったような人を信じて・・。』と言われたさかいに、『あれはな、私らの罪のために死んでくれはったんやで・・』って教えてあげた。」
天地創造から処女懐胎、十字架までを伝えておられたので驚いた。どのように理解して貰おうかと思っていた罪についても伝えて居られたことに、私は口をあんぐり・・「『確かに、あんたはこのごろ明るうなったなぁ。』といつも言われるから嬉しい。」と喜んで居られる。「自然に話しとうなるねん」そう、原点やなあ・・と納得。
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