石ころ

幼子ニコデモ




「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」(ヨハネ3:2)

 屁理屈を言い続けるパリサイ人や律法学者の中にあって、ニコデモはみわざの事実をありのままに見ていた。それによってイエスの神性を悟ったのだと思う。
そのようなニコデモの目にイエス様は神の国を見せようとされた。

イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」(ヨハネ3:3)


ニコデモの訊き方はユダヤ人の教師のようではなく、まるで幼子のようにシンプルであった。

イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。
肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」(ヨハネ3:5~8)


幼子のように訊くニコデモに対して、イエス様は霊の目を覚ますように奥義を語られる。おことばに食い付いてくるニコデモを喜んでおられるように感じられる。

ニコデモは答えて言った。「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」
イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。(ヨハネ3:9~10)

霊の目が開かれるためには、新しい革袋が準備される必要があり、古いもの役に立たないことを示され、それまでの知識は新しく生まれ変わるには何の役にも立たない事をはっきりさせられた。
このことは、ニコデモだけではなく、すべての人に向かっておっしゃっているのことなのだ。なぜなら誰でも霊においては神様の前に幼子であるから・・。

まことに、まことに、あなたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。
あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。
だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。(ヨハネ3:11~13)


 イエス様が事実を話されても誰にも分からないのである。この地に在る者が天の事柄を知ることはない。
ただ、ひとり天から下ってきてくださった方だけが知っておられる。だから、「わたしの言うことを聴きなさい。」と話してくださる。

モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。
それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」(ヨハネ3:14~15)

なんと、ニコデモに十字架のことまで話された。だから十字架刑の後、彼はイエス様を葬る働きを果たした。彼の内にイエス様のおことばが確かに残っていたので思い出したのだろう。


神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネ3:16~17)


このみことばを覚えていないクリスチャンはないと思えるほど有名なことばであるが、これはイエス様がニコデモに話されたことばだったのだ。
もちろん今はすべての人に・・。

御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。
そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。
悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。
しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。(ヨハネ3:18~21)


罪とは何であるか、神がおくってくださった救い主を信じない事である。悪い行いとは何か、救い主に来ないことである。それは、神の愛への拒絶であるから・・。
真理を行うとはなにか、自身の弱さに働く神のわざを光の中に曝すことである。

幼子のようにみことばを聴こうとする者に、主は惜しげもなく奥義を語ってくださる。学問も奉仕も献金も年数も問われない。
何しろ出会ったばかりのサマリヤの女や、無学な盲人に教え導いてくださったのだから・・、なんと感謝なことだろう。

だからこそ、昔絵本で知った教えに留まることなく、人から教えられた教えでもなく、日々、聖霊を通して教えてくださるイエス様に、直接耳を傾け、主を知るために語られる奥義を待ち望む者でありたいと思う。

生きているものは成長を続けるはずである。生きている信仰、主との生きた交わりによって、体は衰えても霊は成長を続けもっともっと主を知ることができるのだから・・。
主に愛される幼子たちよ!

ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。(ルカ10:21)

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