モーセは神のことばを聴いてその備えを知ったが、自分が行くことには尻込みをしている。
人が総論賛成でも各論に入ると反対するようになるのは、一歩踏み出すとなると自分を計算するからである。
モーセは答えた。「ですが、彼らは私の言うことを信じず、私の声に耳を傾けないでしょう。むしろ、『主はあなたに現れなかった』と言うでしょう。」(1)
モーセの恐れは、王の権威と、自分が口にする言葉の権威を比較したからである。彼は神のことばの権威を知らない。神は、みことばに在る神の権威をモーセに見せられた。
主は彼に言われた。「あなたが手に持っているものは何か。」彼は答えた。「杖です。」
すると言われた。「それを地に投げよ。」彼はそれを地に投げた。すると、それは蛇になった。モーセはそれから身を引いた。(2~3)
モーセは自分の杖の蛇を恐れて身を引いた。
蛇はエデンの園ではエバを罠にかけるサタンの使いであったが、荒野では神の備えによる青銅の蛇が掲げられ、見上げた人を癒やした。
サタンも悪魔も神の許しの範囲でしか働けず、神のご計画の中で限定された存在に過ぎない。
蛇に誘惑されて死が入ったアダムたちは、罪の葛藤が永遠に続くことがないようにと、いのちの木がある園から追放された。
神は今日に至るまで人を愛して関わり続け、キリストに拠って罪からあがない。今、自から神を愛する者を守り育ててくださっている。
やがては天から下って来る新天新地を備え、神を愛する者に永久までも共に生きる救いを完成してくださる。
そこには聖霊の助けの中で、一人ひとりが自らの選択による神との信頼関係があり、その愛よって形成された神の家族の完成がある。すべては神の愛の深さによることである。
神はモーセの手の中に在る杖を、神の権威を現わす道具として用いられた。
神は私たちの持っているものを用いてわざを行われる。それは、主は近しくいてくださるということであり、誰にとっても神の助けは手の中に置かれてあるということである。
そう、今キリストは私たちのうちにおられるではないか。
私たちの働きも、遠くに行って何かを身に付けて来る必要はなく、今持っているものを用いてわざを成させてくださる。すべては杖の力にはよらぬ、神のわざだからである。
主はモーセに言われた。「手を伸ばして、その尾をつかめ。」 彼が手を伸ばしてそれを握ると、それは手の中で杖になった。(4)
モーセが、自分の杖が蛇になったとき身を引いたように、蛇となった杖の尻尾を掴むことさえ恐ろしいが、私たちは主に在って害を受けることはないのだ。それはみことばの知識によることである。
その手で蛇をつかみ、たとえ毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば癒やされます。」(マルコ16:18)
「これは、彼らの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主があなたに現れたことを、彼らが信じるためである。」(5)
「わざによって信じなさい。」イエスさまもそのように言われた。目の前で行われる神の働きを誤魔化さずに、真っ直ぐに見て悟るためには、聖霊によって目を開かれる必要がある。肉の目は、自分の中に巣くっている思いのままにしか見ないからである。
しかし、神がモーセに見せられたわざは単なる練習のためではない。モーセがみことばの権威を体験するためである。みことばをどれほど語っても、その権威も力も知らぬ言葉には何の力も無いからである。