石ころ

信仰の中に在る苦しみ(ピリピ1章)

 

子どもであれ老人であれ、真実な信仰には葛藤がある。この世と天の御国を股に掛けて生きることになるのだから。
いつもどちらを選択するのかが問われ続ける。頭で分かっていても感情を従わせて、服従することは簡単ではない。だからその時、聖霊がみことばによる確信を持って、寄り添っていてくださるのである。


わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。(マタイ10:34)

  

その剣が一番に切り裂くのは、自分の信仰の本質である。隠れているものを光の中に曝して、それらが確かに十字架を通って、きよめられていることを証するためである。


ただ一つ。キリストの福音にふさわしく生活しなさい。そうすれば、私が行ってあなたがたに会うにしても、また離れているにしても、私はあなたがたについて、こう聞くことができるでしょう。あなたがたは霊を一つにしてしっかりと立ち、心を一つにして福音の信仰のために、ともに奮闘しており、(ピリピ1:27)


キリストの福音にふさわしいく生活することは、ひとえにキリストの聖さの中に在ることで、十字架の血潮に洗われた者の聖さを共にしているなら、そこにはキリストの平和があり、聖霊による一致によって互いの賜物を喜び、互いの働きを補完しつつ完成して行くだろう。


また、どんなことがあっても、反対者たちに驚かされることはないと。それは、彼らにとっては滅びのしるしであり、あなたがたにとっては救いのしるしです。これは神から出たことです。(ピリピ1:28)


反対者が反対するのは、自分の絶望を共に負わせるためである。しかしキリストの救いを受けた者は、何ものも奪うことのない、神との平和を持っているのだから、彼らに関わる必要はないのである。
彼らが反対したのは福音を聞いてのことであり、自らの選びによって滅びるのだからである。


あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです。(ピリピ1:29)


真実な信仰には苦しみや悲しみが伴う。それはイエスさまが味わってくださったものである。その痛みをご存じの主は、どれほどにか近しく居て、レーマのことばを語って確信を与え、ハラハラと守っていてくださることだろう。

また、あらゆる必要を満たして、御自身が神の力であることを日々知らせて、信仰の確信を与え続けて下さるのである。


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