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石ころ

すべてを益とするために



 最近はなんだか涙もろくなって・・ぽろぽろ涙を流すわけではないけれど、涙のダムが決壊しそうになることが度々ある。
この悲惨な震災から後、テレビや新聞記事に胸を詰まらせることが多い。

私は素直でなく情のこわい女で、以前は「フン、安っぽい涙を流して・・」と斜めに構えることが多かったのだけれど・・悲しいことがあまりにも多すぎて、痛ましいことが多すぎて、もう・・共に悲しむことしかできない。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)
私は、創造主が御子をくださった事実、その愛を知っている。主がどうしてもさばかなければならないとしたら、その理由は唯一「愛するゆえに・・」

 死は誰にでも平等に訪れる。しかし、造り主を無視するとき、救い主を拒否するとき、もっともっと悲惨なことがあるのだ。もっともっと終わりのない苦痛がある。それをどうか悟ることが出来るようにと、主は大きな音を立てて人の心の戸を叩いていてくださるのだろう。


今日、T姉妹が送って下さった本「聖霊の管理」(ウオッチマン・ニー著)を読んだ。
聖霊が私たちを管理し、私たちに働いて、生まれたままの良いことも悪い事も含めて、生まれつきの古いものをすべてを砕き、新しく造り直して、神の内に組織してくださるその時、

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマ8:28)
あらゆる事柄が、私たちの益となるように神の按配が働いている。しかし、それは私たちが共に働くということによって、益として実現するのだということ。
益とならないのは、私たちに神以外に心があり、神以外に目的があるからで、神を愛さないからである。

 主を愛する態度・・それは、安心してやわらかな心でお任せることだと思う。普通に考えても、愛する人に対して守りを固める人はいないだろう。
「心が柔軟でないのは、神の愛を感じないため、神を愛さないから・・」と書かれていた。


「わたしは黙し、口を開きません。あなたが計らってくださるでしょう。」(詩編39:10)

私たちへの神の愛し方に対しては、いかなる事態であっても、「神が、私の益のために許されたことが起こっている。」という事実を知っておれば、神に対して「なぜですか」とは問わない。

 今日はあっても、明日は居ないかもしれないのだから・・光のある内に、このいのちのある間に、心の戸を開いて、救い主を一番大切なところに迎え入れることができますように。そのお方に身を委ねて安息することが出来ますように。

このような混乱の中で、主に向かって色々なことを祈りお話をする。悲しみを訴え、哀願をする。言葉がないときには異言で語る。
ふざけているときも、笑っているときも、心の奥に聖霊の悲しみの祈りが満ちていることも知っている。

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