この言葉から、イスラエルにも因果応報という考えがあった事が分かります。
親の因果によって子に災いを残すこともあるでしょう。しかし、このように質問する弟子たちが、自分たちにはそのような罪はないと思っている鈍感さに問題があります。
子に一切の災いなど残さないほどの親が何処にいるでしょうか。人は親も子もみんな罪の血筋に生まれた罪人なのです。
イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。
イエスさまのお答えは憐れみに満ちていました。イエスさまは病人を癒し、罪人を赦すために来られたのですから。
わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。
わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」
時間は限られています。そのいのちのある間に私たちは、イエスさまを知らせる責任があるのです。
イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。
「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。
イエスさまは今までのいやしとは違って、彼には不思議なことをされます。目に土と唾で作った泥を塗ったのです。
「顔に泥を塗られる」という言葉がありますが、まさにそのとおりです。彼が自分が泥を塗られたことを知ったのは、周りにいた人々が囃し立てたからでしょう。
彼はシロアムの池までたぶん苦労をして行ったと思いますが、あざけりや嗤うことばにくじけることはありませんでした。それは、彼の信仰と言うよりは、それ以外に物乞いの生活から抜け出る方法がないほど絶望的な立場だったからでしょう。
私たちは信仰によって救われたと思いがちですが、自分の絶望的な立場に気づいただけなのかも知れません。この気づきが実に大切なことなのです。
この世でどれほど上手くいって幸せであっても、たかだか120年です。
その後は、お葬式での適当な慰めの言葉として、誰にでも「天国で・・」と言いますが、それはサタンの誤魔化しです。
待っているのは永遠の滅びと永遠の裁きです。その事実を知って人は生きている間に絶望するべきなのです。まだイエスさまの救いには間に合うからです。昼の間に働くことが必要なのです。
パリサイ人たちは、彼らの言い伝えに従わない癒しを責めます。しかし、こうした世の人々によって、癒された男はイエスさまをあかしして成長して行きます。
彼の言葉が世を恐れることなく、癒し主であるイエスさまを大胆に伝えています。
ほかの人は、「これはその人だ。」と言い、またほかの人は、「そうではない。ただその人に似ているだけだ。」と言った。当人は、「私がその人です。」と言った。
彼ははっきりと自分が癒された盲人ですと語りました。自分の身に起こったことを伝えることは、イエスさまに憐れまれた者の大切な仕事です。
こういうわけでもう一度、パリサイ人も彼に、どのようにして見えるようになったかを尋ねた。彼は言った。「あの方が私の目に泥を塗ってくださって、私が洗いました。私はいま見えるのです。」
彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」
彼は答えて言った。「これは、驚きました。あなたがたは、あの方がどこから来られたのか、ご存じないと言う。しかし、あの方は私の目をおあけになったのです。
盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたこともありません。
もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。」
彼の言葉はどんどんはっきりとイエスさまを語るようになります。
そうして、イエスさまを主として受け入れ礼拝しました。このようにして神のわざがあらわされ、今も私たちが、彼から主を知ることができるのです。
この時、かれの障害が親の因果であったのか、彼の罪によるものであったのかは問題ではなく、ただ神が崇められるために用いられたのです。
彼は言った。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。
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