石ころ

将来を守る主の命令(申命記20章)

 

あなたが長い間、ある町を包囲して、これを攻め取ろうとするとき、斧を振るって、そこの木を切り倒してはならない。その木から食べるのはよいが、切り倒してはならない。まさか野の木が、あなたの前から逃げ出して包囲の中に入ってしまう人間でもあるまい。(19)

 

先だつみことばの確信によって事を初めても、一向に事態が動かない時がある。そのようなとき苛立って人間的な手段を講じて、手持ちの斧を力に任せて振るうなら、将来のために備えられたものを損なってしまう事がある。

 

私のたましいは 夜回りが夜明けを まことに 夜回りが夜明けを待つのにまさって 主を待ちます。(詩篇130:6)

 

キリスト者にはじりじりと身を焼くように、主の時を待たなければならないことがある。聖霊に示されたみことばに身を避けて、自分の計画について祈ることさえ禁じられて待つことがある。サウル王がサムエルを待てなかった恐怖の中で・・。

しかし、それは主に信頼した勝利の経験となり、問題に対峙する度に生きて働くみことばを思い出させる経験となる。それは主が備え育ててくださった信仰であり、勝利の在り処はただ主により頼んだことである。

 

木を生かしておいても敵とはならない。物事の見境を失うのはみことばに立っていないからで、聖霊に指し示されるみことばにより頼むとき、貧しさの中でも貴重な将来の備えを損なわず、たとえ大軍を目の前にしても、主はどのような勝利を見せてくださるのかと期待する時となる。

 

ただ、実を結ばないと分かっている木だけは切り倒してもよい。それを切り倒して、あなたと戦っている町が陥落するまで、その町に対してそれで砦を築いてもよい。(20)

 

ヒッタイト人、アモリ人、カナン人・・彼らを聖絶するように主が命じられたのは、彼らは決して良い実を結ぶことは無いからである。
イスラエルに汚れを持ち込んで罪を増し加える前に、人は必ず一度死ぬという日を早められた。

 

今激しさを増す霊の戦場のような世で、日々新しくたまわるみことばの光がなければ、この闇を真っ直ぐ御国に向かうことはできない。
神は万年同じことを命じているのではなく、昨日は岩を「打て」と命じられても、今日は「命じよ」と言われ、御声を聴き取る者を待っておられる。

 

それは群衆に向かってではなく、一人ひとりの交わりの中でそれぞれの計画を話される。自分で御前に出て聴かなければ、誰も他人分まで聴くことは出来ないのだ。みことばを開いて、聖霊に拠り頼みつつ自分の耳で自分の目で聴くことが必要なのである。

 

将来への備えと、今消費するものを見分けるために聴かなければならない。たとえそれが戦場であろうと、平凡な日常にあろうと、今日静まって主に「アーメン」と聴くなら、主はすべての必要を満たしてみこころを成させてくださる。

 

イスラエルの聖なる方、神である主はこう言われた。「立ち返って落ち着いていれば、あなたがたは救われ、静かにして信頼すれば、あなたがたは力を得る。」しかし、あなたがたはこれを望まなかった。(イザヤ30:15)

 

「主に信頼して、主を経験することを望まなかった」とある。問題が立ちはだかって先の見えない状態が続いた時には、みことばを何時までも待つ必要がある。待てないのは肉の目に見えるものがすべてとなって、みことばを排除するからである。
しかし、問題は主に在ってすでに解決しており、主は将来を示して「力を得る」と語られたのだ。

 

実を結ぶ木を貪り切り尽くすような飢え渇きは、霊の貧しさによる魂の渇きである。
キリスト者の実は永遠のいのちであり、キリストが備えてくださった天の御住まいという絶対の勝利をすでに持っている。
けれども絶えざる主のお交わりに居らず、世にかまけているなら肉の目や耳に入って来る世の大声に怯えて、将来に残すべき実を消耗してしまうのである。


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