でもそれは子どものために与えられた財産であった。彼は、王の友であったヨナタンという親のゆえに一方的な恵みを受けた。そして、その子もその恵みを受けた。
ダビデは、神様の型であるから、このことは神様が私たちにしてくださる恵みを現している。信仰を持った私たちは神様の恵みによってすべての必要は満たされている。けれども子どもたちがまだ信仰にいたってはいない時でも、このように私たちと同じ恵みを備えていてくださると、みことばから確証を得たように思えた。
私がイエスさまを信じる信仰をもった時から、子どもたちも主の憐れみを頂いていることを経験してきたけれど、確かに神が備えて下さったものは、千年にいたる祝福なのだ。
聖書には親の信仰によって救われる子の記事も多くある。けれども、親の因果(背きの罪)によって祝福を失う子供の記事もある。
私の祖父は、大きな教会の長老といわれる役を長く務めていた。私は祖父が、夕闇の迫る部屋で、ひとり背中を丸くして祈っている姿が目に焼き付いていて、ひとりぽっちになり世の嵐の中にいる時も、記憶の底にイエス・キリストという存在は消えなかった。
でも叔母はその父の役職につまずいていた。教会の仕事が人間的なレベルで行われていたというあれこれの話を私に聞かせた。召された今は、主の憐れみの中に居ると信じたいけれど、子どもをみことばから名付けただけの信仰で、環境に流され偶像礼拝に堕ちていった日々を知っている。
彼女の嫌っていた人間的な生き方を結局選び取ってしまっていた。祝福の計画を変えてしまうのは、結局その人の選びの結果なのだろう・・。
メッセージの中で話されたこのみことばが心に深く残った。
「メフィボシェテはエルサレムに住み、いつも王の食卓で食事をした。彼は両足が共になえていた。」(Ⅱサムエル9:13)
メフィボシェテは、すっかり自分の力は萎えて、王より与えられた身分に安息している、それこそ親が子につなぐ信仰の姿なのだろうと思った。
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