石ころ

神に在る者の豊かさ(民数記32章)

 

ルベン族とガド族は、多くの家畜を持っていた。それは、おびただしい数であった。彼らがヤゼルの地とギルアデの地を見ると、その場所は家畜に適した場所であった。(1)

 

彼らは主の約束の地ではなくこの地に留まることを願ったのである。それは神のご計画を成さない行為であり、イスラエルの民の前で道を反れることである。
モーセは怒って、彼らの父が主に信頼せずに死を招いたことを話した。

 

あなたがたの父たちも、私がカデシュ・バルネアからその地を調べるために遣わしたとき、そのようにふるまった。
彼らはエシュコルの谷まで上って行って、その地を見たとき、イスラエルの子らの意気をくじいて、主が与えてくださった地に入って行かないようにした。(8~9)

 

彼らの父の不従順が、主の恵みを前にして荒野を四十年彷徨う死を招いたのである。ただ主に従い通したカレブとヨシュアだけが生かされた。

祝福の地に入るには主に信頼する勇気が必要である。彼らはカナン人を恐れて主に信頼しなかったのだ。神を恐れる者は人を恐れない。それは経験した主の御わざを覚えているからである。

 

彼らは皆エジプトを脱出する時に神の御わざを経験していた。主の助けによって奴隷状態から救い出され、追手に追い詰められた時は海が割れ歩いて渡ったのだ。超自然な神の奇跡を繰り返し経験しても、感謝が続かないなら神への信頼を失って人を恐れるのである。

 

「そして今、あなたがたが、罪人の子らとしてあなたがたの父たちに代わって立ち上がり、イスラエルに対する主の燃える怒りを増し加えようとしている。
あなたがたが背いて主に従わないなら、主は再びこの民をこの荒野に見捨てられる。そしてあなたがたは、この民全体に滅びをもたらすことになるのだ。」(14~15)

 

彼らを誘ったものは、おびただしい家畜を養うに十分な目の前の豊かな地であった。危険と飢えの中では主を離れることが出来ない者でも、豊かさは信仰を試すのである。

彼らが誘惑される時、民全体は低きに流れて堕落させ父の失敗を繰り返すことになるのだ。それは無限に失敗を繰り返す入り口であり、イスラエルの民が死に絶えることでもある。

 

彼らはモーセに近寄って言った。「私たちはここに、家畜のために羊の囲い場を作り、子どもたちのために町々を建てます。
しかし私たちは、イスラエルの子らを彼らの場所に導き入れるまで、武装して先頭に立って急ぎ進みます。子どもたちは、この地の住民の前で城壁のある町々に住みます。
私たちは、イスラエルの子らがそれぞれその相続地を受け継ぐまで、自分の家に帰りません。(16~18)

 

彼らはかろうじて正気を失わず神の戦いに加わることを誓った。それはとても際どい選択である。誘惑には近づかないことが安全であり、神のご計画の前で自分の愛する者を優先することは賢くない。

 

その地は、彼らが一緒に住むのに十分ではなかった。所有するものが多すぎて、一緒に住めなかったのである。(創 13:6)

ロトはアブラハムを離れて、低地の町々に住みソドムに天幕を移した。
多すぎるほどの家畜がいなければロトも、アブラハムと平和に暮らし続け、神が滅ぼす忌まわしいソドムに住むことは無かった。妻が繁栄のソドムを惜しんで振り返り、塩の柱になることもなかったのだ。

 

多くの物を所有することは主の豊かさを味わうこともあるが、それを正しく治めることは簡単なことではない。多すぎる物によって主に従う自由を失うなら災いとなる。

キリスト者は主と共に在り、世に居る間も日々に必要を満たされつつ、神のご計画によって生きて、世を去ってなを永遠に御許に住む者である。まことに、これはどれほどの富であろう。

 

私たちにがたまわっている恵みは、尽きることが無いものである。主の憐みに在るやもめの壺の油や、瓶の粉は尽きることが無かった。これこそ究極の豊かさである。何よりも身軽であり泥棒の心配をする必要さえない。

エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、壺の油はなくならなかった。(Ⅰ列王17:16)

 

私は宝くじを買ったことはない。大金が当たると困るから・・、それは考えただけでもうっとおしい。寒さを感じない服があれがそれで良いし、大きな家に住みたくもなく、旅行に行くのも面倒で欲しい物とてない。

まあ私がブランド物を持っても模造品としか見えないだろうし、人に仕えられることも好きじゃなく、お金持ちと交わることなど肌に合わないに決まっている。

 

日々の必要が満たされる暮らしには恵みに感謝するチャンスが多くある。セキュリティーを思い煩う必要もなく、逆に留守の間にお野菜が置かれていたりして、愛を感じて感謝のお祈りとなる。

神の子が貧しくなって借り歩くようにはされず、誇りを持って生きるように守られている。それはどんな時もキリストを喜ぶ喜びが満たされ、魂の飢餓が無いからである。

 

すべては、創造主なる神の子の豊かさによることである。永遠まで明日を思い煩う必要が無いということはどれほどの豊かさであろうか。
キリスト者の必要はただ、ただ主であり、主を知るみことばの経験である。

 

あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。(Ⅰペテロ5:7)


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