石ころ

誰であっても・・ (ルカ11章)





イエスは悪霊、それもおしの悪霊を追い出しておられた。悪霊が出て行くと、おしがものを言い始めたので、群衆は驚いた。
しかし、彼らのうちには、「悪霊どものかしらベルゼブルによって、悪霊どもを追い出しているのだ。」と言う者もいた。(ルカ11:14~15)


イエスさまはご自分からは何もなさらなかった。イエスさまは御父のことばを話し、御父のわざだけをして居られた。しかし、群衆の中には「ベルゼブルによる」と言う者がいた。
賢さは屁理屈を付け加えるものである。それも神様をサタンと決めつけるなら、彼らの救いはもう何処にもないことになる。

もしもわたしが、ベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているのなら、あなたがたの仲間は、だれによって追い出すのですか。だから、あなたがたの仲間が、あなたがたをさばく人となるのです。
しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。(ルカ11:19~20)


賢い者たちは賢い仲間によって、絶えず裁かれ罪定めされて、御国の恵みに落ち着くことができない。

忌まわしいものだ。律法の専門家たち。あなたがたは、知識のかぎを持ち去り、自分もはいらず、はいろうとする人々をも妨げたのです。(ルカ11:52)

しかしへりくだって、御子によって行われる神の手のわざを受け入れるなら、「神の国はあなたがたに来ている」と言われる。
もう、互いに責め合い訴え合う所に居なくても良いのだと・・、主に賜る平安な神の国が来ているのだと言われた。

ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。(ルカ10:21)

幼子の素直さだけで神の国を知ることはみこころに叶っており、此処には何も要求されていない。
イエスさまのお言葉には限りない優しさが込められている。ベルゼブルと呼ぶ者に向って、このように諭されたのだから・・。

それにしても、人には聖いものと汚れたものの区別ができない。だから聖霊を求めなさいと言われる。誰であっても求める者は受けると約束されてある。

わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。

あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。
卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。
してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」(ルカ11:9~13)

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