石ころ

「神の国」を求める (ルカ12章)




 イエスさまの回りは群衆で足の踏み場もないほどになった。しかし、この時イエスさまは弟子に対して話された。

そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。
恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。(ルカ12:4~5)

主を恐れるとは、みことばを無視しないこと以外に何があるだろう。それは、聖霊によって示されるみことばに従順することである。
押し寄せる群衆に惑わされることなく、「わたしのことばに留まりなさい」と言われている。

そこで、あなたがたに言います。だれでも、わたしを人の前で認める者は、人の子もまた、その人を神の御使いたちの前で認めます。
しかし、わたしを人の前で知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます。(ルカ12:8~9)

弟子がイエスさまを「知らない」ということはありえないが、みことばを軽んじることは御父を否定することである。人を恐れると神を「知らない」と言うことになり、それはペテロの失敗と同じこと。
主を認めるとはみことばを告白することだが、それは聖霊に拠らなければ何を話すべきかわからないし、恐れによって必要なみことを語ることもできないものである。

たとい、人の子をそしることばを使う者があっても、赦されます。しかし、聖霊をけがす者は赦されません。(ルカ12:10)

人の子イエスは十字架の上で犯罪者として人々にそしられ、不幸事や自分にとって不都合なことが起こる度に、人は神様をそしってきた。もし、それによって赦されないのなら救われる者は誰もいないだろう。
ただ、聖霊の導きに拠ってイエス・キリストを救い主と信じ救われたのだから、その方を否定してけがすなら救に至ることはない。

ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。(Ⅰコリント12:3)

人はこの世でどうように財産を守り、また家族を守ろうかと心配をする。
それがキリスト者も同じだと言うなら、何処で神のみわざや豊かさを経験することができるだろう。その信仰のどこに神様が介入することができるだろう。一分の隙もなく人の力によって守られている所に・・。

何を食べたらよいか、何を飲んだらよいか、と捜し求めることをやめ、気をもむことをやめなさい。
これらはみな、この世の異邦人たちが切に求めているものです。しかし、あなたがたの父は、それがあなたがたにも必要であることを知っておられます。
何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます。(ルカ12:29~31)


神の国を求めるとは、守ってきたものを主に明け渡すリスクを取ることである。私たちには信仰がないから、それはリスクに思えるのであるが・・。
そうすれば、神の国に加えて世の必要を与えると約束されている。

小さな群れよ。恐れることはありません。あなたがたの父である神は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。
持ち物を売って、施しをしなさい。自分のために、古くならない財布を作り、朽ちることのない宝を天に積み上げなさい。そこには、盗人も近寄らず、しみもいためることがありません。(ルカ12:32~34)


「持ち物を売って施しをしなさい」とあるけれど、それは自力で守って来たもろもろを主の前に差し出すこと。
そのことによって、神様のみわざを見て救われる人々への施しとなるのであり、天に宝として積み上げられる。

「恐れるな」と聖書は繰り返し私たちに命じている。
「喜んで御国をお与えになる」とあるが、深刻な問題は「神の国を一番に求めて居るのか」ということなのであって、そうでないなら聖書はその人にとって無意味であり、主のお悲しみである。

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