「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」
なんという約束だろう!
私は受洗前に聖霊のバプテスマを受けた。それには、赦しの証拠がなければ一歩も進むことができない事情があったからだ。
炎が頭の先から足の裏まで貫くという体験によって、完全に新しくされたこと、過去のすべての罪が過ぎ去ったことを震えながら知った。
「さあ、洗礼だ!」なんてひとりで舞い上がってしまったけれど、洗礼を申し込んでから数ヶ月置いてみことばの学びを続ける事になった。
内心「なぜ?」という思いもあったが、聖霊のことは誰にもいうべきではないと思えたので黙っていた。
なぜ、誰にも秘密にしていたか・・それはきっと気が狂っていると思われるだろうと感じたからである。
今も、時としてみことばを解かれたときに私は狂っているのではないか・・と感じることがあるが、そんなときこのみことばに慰めを得る。
間違うことも、狂うことも主の赦しの中にあることなら、それで良いと思うから・・。
もし私たちが気が狂っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです。(Ⅱコリント5:13)
受洗準備の中で、沢山のみことばを暗唱させられて、石のような魂に刻み込まれたことは、みことばへの従順を習得するために必要不可欠であったと思う。
聖霊はみことばを開く鍵であり、主を知ることの助け手である。なのに、聖霊だけを求めても、開かれたみことばへの従順が無ければなんの意味もないことであったから。
罪のためのささげ物はもはや無用です。
こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。(ヘブル10:18~19)
罪のあがないはただ一度捧げられたイエスの血のみ。神の御前に受け入れられる捧げ物は、聖く汚れなきイエスの血のみ。人は何もそれに付け加えることはできない。
だから、十字架の血であがなわれた衣を着せられて、イエスが開いてくださった門を通って神の聖所にはいり、家族としてそこに住むのである。
魂や体は世にあって絶えず罪に曝され、時に汚されることがあっても、良いときは居るが悪いときは出るなどと、聖所は出入りする所ではなく、霊はその聖所あって主の御前に常に安息しているのである。
救われた霊は、魂を従え肉体を従えている。それらの罪はすでに処理されてあることを知って居るからである。
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