彼女はメシアに出会い直接福音を聞いた喜びによって、その知らせをもって町へ走った。
しかし叫んだその言葉は、まるで三流週刊誌の記事のようであった。
「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」(ヨハネ4:29)
それは、夫を5人も取り替えたという「私のしたこと」であって、もっと賢い言葉があるであろうにと思えた。
ただ、そのことを人前に語るとき、彼女は罪の責めからは完全あがなわれていたのである。十字架前であったけれど、イエスさまの癒しや赦しは時間を飛び越えてすでに実現していたのだ。
さて、その町のサマリヤ人のうち多くの者が、「あの方は、私がしたこと全部を私に言った」と証言したその女のことばによってイエスを信じた。(ヨハネ4:39)
キリストを知らせる言葉は稚拙な表現であっても、その言葉を用いられるのは主であるなら、賢い言葉を選ぶ必要は無く、内から溢れ出る言葉がサマリヤの人々を動かした。
そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた。
そして彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」(ヨハネ4:41~42)
サマリヤの人々から「あなたの伝道に拠らない」という言葉を聞いたとき、彼女はとても安心しただろう。そもそも伝えたかったのは「イエスのことば」であり目的が叶ったのだから。
イエスさまから充分な喜びを賜った者には人の評価やお礼などは不要である。
「ほんとうに世の救い主」彼らの言葉から、彼女はキリストを再確認することが出来て、その喜びを共有したのだ。それ以上に嬉しいことはないのだから・・。
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ムベ
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