石ころ

愛のことば (ヨハネ20章)




 十字架の死から甦ったばかりのイエスさまは、マグダラのマリヤに「すがりついていてはいけない」とおっしゃった。
この時、彼女は自分たちと同じ体のイエスさましか知らなかったのだ。このことはすべての弟子たちに共通することであった。

彼らは神のキリストと信じて着いて来た方を、言い聞かされていても理解できない十字架刑によって失い、墓では御体を見失ったのだ。
それはどれほどの戸惑いと混乱であったことだろう。彼らは聖霊を受けるまでは無学な普通の人なのであったから・・。
トマスもイエスさまの体によって主を知ろうとしていた。

ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言った。(ヨハネ20:25)

 天に昇られたイエスさまは遍在の主としていつも共にいてくださるお方となられた。そのことは霊によって悟らなければならないことであった。
主の臨在を平安によって認識するようにされて弟子は遣わされて行くのである。その働きのために「聖霊」が来てくださったのである。

その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」
こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。
イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」(ヨハネ20:19~22)


マリヤは一番に遣わされたのだ。弟子たちにみことばを届けるために・・。目に見える体にすがりついていないで、みことばによって生きる者と変えられたのである。
イエスさまは弟子の必要を備えてくださる。聖霊によって霊の目を開き、キリストの信仰による平安と力が備えられた。
それはみことばを世に伝えるためである。十字架で主が支払われた血の代価によって、買い取られた人の命を得るためである。

彼らは群衆に聖霊によって示された言葉を直裁に語る。「人々はこれを聞いて心を刺され・・」とある。聖霊に拠って混ぜもののないことばを語るのである。
滅び行く命を買い取ることができるのは、人が世で生きている間だけであり、それはあまりにも短く世がそれを聞くチャンスはあまりにも少ないのだ。

人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている(ヘブル9:27)
あらゆるチャンスにいのちに関わるみことばを選んで語るのは、十字架で流された御子の血を惜しみ、父なる神の愛される世を惜しむからである。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)

怒りつつでもキリストのことばが心に残っていて欲しい。反発の中ででもみことばが心に留まっていたなら、命の危急の時に思い出して救われるという一縷の望みがあるからである。
神の愛は、御子をたまわるほどに深いからである。

 今日は阪神大震災の日として、震災を経験した人々によって命の備えのために語られる。必ず死ぬべき命にさえも惜しむ涙が溢れるなら、まして、永遠のいのちと永遠の裁きという事実を知っている者が、どうして静かにしていることができるだろう。

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