石ころ

バラムに告げられたイスラエルの祝福 ①(民数記23章)

 

バラクは呪いを求めたが、バラムは神が告げられた祝福を語る。バラムはバラクを恐れなかった。主の御告げを聴いた者は主を恐れて、人を恐れずに語らなければならない。聴いた通りに語るなら主は教えてくださる。

なおも、バラクはイスラエルの民が見えるビスガの頂にバラムを連れて行った。

 

主はバラムに会い、その口にことばを置き、そして言われた。「バラクのところに帰って、こう告げなければならない。」
それで、彼はバラクのところに帰った。すると、彼はモアブの長たちと一緒に、自分の全焼のささげ物のそばに立っていた。バラクは言った。「主は何をお告げになりましたか。」(16~17)

 

バラクは主のみことばを待っていた。神の権威を知っていたからである。ただ、神の口から出たみことばに人は従順するべきことを悟らなかった。それはすべての創造主である神を知らないからである。バラムはバラクに神の言葉を告げた。

 

神は人ではないから、偽りを言うことがない。人の子ではないから、悔いることがない。神が仰せられたら、実行されないだろうか。語られたら、成し遂げられないだろうか。(19)

 

まさにバラクはこのことを恐れていたのである。なのに彼は、神の祝福の民と知ってなを、繰り返し神のことばが変わる事を期待した。彼は、神は永遠のことばを語られる方であることを知らず、自分の捧げものによる心変わりを期待したのである。

 

神のご計画を変えるほどの捧げものが人に存在するだろうか、たとえ命を捧げても自分の罪の結果でしかないのである。
しかし、神が憐れんでくださったときモーセのことばを聞き入れられた。彼が神の民愛していたからである。みこころを動かすものは愛なのである。

 

見よ、私は、祝福せよとの命を受けた。神が祝福されたのだ。私はそれをくつがえすことはできない。
ヤコブの中に不法は見出されず、イスラエルの中に邪悪さは見られない。彼らの神、主は彼らとともにおられ、王をたたえる声が彼らの中にある。(20~21)

 

イスラエルの不法は取り除かれ邪悪さはきよめられる。神が彼らとともにおられるからである。それゆえ、彼らは王なる主をほめたたえることが出来るのである。

 

主が居られる所は主に拠ってきよくなる。それゆえ神の民には訓練があり、神の子もその訓練を受けて成長する。日々みことばを生きることを、聖霊の助けによって訓練され、主の備えてくださったタラントに応じて、喜び働く者とさせてくださるのである。

 

彼らをエジプトから導き出された神は、彼らにとって野牛の角のようだ。
まことに、ヤコブのうちにまじないはなく、イスラエルのうちに占いはない。神が何をなさるかは、時に応じてヤコブに、すなわちイスラエルに告げられる。
見よ、一つの民を。それは雌獅子のように起き上がり、雄獅子のように身を持ち上げ、休むことはない。獲物を食らい、殺されたものの血を飲むまでは。」(22~24)

 

主が完成されるイスラエルの民の姿である。主がともに居られ従順するとき、逆らう罪は取り除かれ、神の良きご計画が成就して行く。すべては初めからのみこころに拠ることである。

 

ユダの家よ、イスラエルの家よ。あなたがたは国々の間でのろいとなったが、同様に、わたしはあなたがたを救う。あなたがたは祝福となる。恐れるな。勇気を出せ。」(ゼカ8:13)


ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「Weblog」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事