キリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。
私がこう言うのは、だれもまことしやかな議論によって、あなたがたをあやまちに導くことのないためです。(3~4)
キリストのことばが内に充満しているなら、まことしやかな教えや誘惑が入り込む余地はない。キリスト者の賢さや知恵、知識はすべてみことばの内に備えられてある。
そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。(10)
生ける神のことばを日々新しく聴き、それを語り出すとき、聖霊は今日のための新鮮なみことばを注いでくださる。
それは生きている神のことばであるから昨日と同じではない、今日の必要を今満たされるからである。
キリスト者は神の霊によって生きているから、日々新しく主の知恵と力がみことばによって供給されない時、力を失って死んだようになり、間違った力に誘惑されてしまう。
人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです。(23)
肉の苦行は人の誇りを育てるが、キリスト者を育てるのは神のことばである。
そこには、騙すものが入り込む余地は無い。生きているものは腐らない。腐った箇所に蠅は付くのだ。
あなたがたは、ことさらに自己卑下をしようとしたり、御使い礼拝をしようとする者に、ほうびをだまし取られてはなりません。(18)
主に在る者は自由を持っている。それは時々刻々と主の交わりの中にあって、何が良いことでみこころであるかを知っているからである。
共に主を礼拝する喜びのために、また、互いの信仰を守り育て合うために、今聴いた言葉を語ろう。人は聞き間違いもするし早合点もある。ただ、聖霊の導きに信頼してのことである。
子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。
してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。(マタイ7:10~11)