石ころ

罪のさばき(申命記19章)

 

 

 いかなる咎でも、いかなる罪でも、すべて人が犯した罪過は、一人の証人によって立証されてはならない。二人の証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない。(15)

 

人が罪を罰するには事実が証明されなければならない。不完全な人の裁きに対して主は、証人を立てるように決められた。
それは罪が存在しても、証人がなければ裁かれないということである。人に罪はもとより存在するものであり、人が裁き得るのはしょせん一部分に過ぎない。
しかし、神にとって罪とは軽重が問題ではなく有無なのである。

 

わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に「ばか者」と言う者は最高法院でさばかれます。「愚か者」と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。(マタイ5:22)

 

キリストの贖いは、御父、御子、聖霊なる三位一体の神が証してくださる。それは、聖いキリストによる完璧な贖いに拠ることである。十字架の尊い血潮に洗われて、みこころのうちを永遠に生きるためである。
それこそサタンがアダムに計った死に対する神の完全な勝利である。

 

悪意のある証人が立って、ある人に不正な証言をする場合には、
争い合うこの二人の者は主の前に、その時の祭司たちとさばき人たちの前に立たなければならない。(16~17)

 

 キリスト者も神の御前に立つ時が来るが、弁護者であるキリストが「この者の罪科はすべてわたしが負って完了しており、無罪です。」と言ってくださったら御前に泥のようにひれ伏すだろう。

 

イエスは言われた。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」(ヨハネ8:11)

 

姦淫の現場で捕えられて、イエスの前に引っ立てられて来た女は、このみことばをどのように聞いていたのだろう。驚きのあまり呆然と主を見つめていたのではないか・・。そう、赦された命を受けて、ただ「アーメン」と言うだけであろう。

この時女は裁きの死を通って、キリストによって新しく生まれたのである。一方的に罪が赦されるみことばは、人を新しく生まれ変わらせる力を持っている。そう、それは人によることではなく、聴いた言葉を実現してくださる主の力にある。

 

さばき人たちはよく調べたうえで、もしその証人が偽りの証人であり、自分の同胞について偽りの証言をしていたのであれば、
あなたがたは、彼がその同胞にしようと企んでいたとおりに彼に対して行い、あなたがたの中からその悪い者を除き去りなさい。(18~19)

 

その行為は神の義擬きのサタンのわざである。人を裁くことによくよく気をつけなければならないのは、妬みや高慢の心がサタンに足台を設けて、その支配下にあることに気づかないからである。此処ではエステル記のハマンを思い出す。

 

ほかの人々も聞いて恐れ、再びこのような悪事をあなたのうちで行うことはないであろう。
あわれみをかけてはならない。いのちにはいのちを、目には目を、歯には歯を、手には手を、足には足を。(20~21)

 

此処では裁きは180度向きを変えて、裁く者がその罪を問われることになる。憐みのないさばきには憐みは無く、罠を仕掛けたさばきには罠が待っている。神は侮られるようなお方でないからである。

 

 キリストの律法は自他の罪の恐れを取り除いて、感謝と平安の中に生きるいのちとなる。
信仰に拠るキリストの罪の赦しが、モラルハザードのように思えてそのまま受け入れることが出来ず、自他の罪に固執するのは聖霊のバプテスマの経験がないからであろう。

イエス・キリストを信じたときに罪びとが経験する、聖霊のバプテスマはすべての罪科の記憶まできよめて、新しく生まれた事実は罪を嫌悪して、もう戻れなくなるからである。

 

新しく生まれた者は、キリストの律法の下にあって罪に縛られてはおらず、みこころに従う自由を持っている。それゆえ自分を心配する必要はなく、大胆に神のことばを語ることが出来るのである。
キリストに出会って人生の向きを変えることが出来るのは、人の努力や清さによることではなく聖霊の働きである。

 

 このことの代表はパウロである。彼は直前までキリスト者を迫害していた罪に縛られること無く、反省や後悔の日々を通ることでもなく、すぐに聴いたままにキリストの言葉を語り続けて殉教した。それは彼が新しくされたからである。

 

人が罪を犯すのは罪に縛れての結果であり、新しく生まれた者は、罪の思いが肉を着ている心を過ることがあっても、うちおられるキリストによって即座にきよめられ、吐いたものに戻ることはない。

真にキリストを信じた者が、世に在るときから永遠のいのちを生き続けることが出来るのは、この神の守りのゆえである。

 

神から生まれた者はみな罪を犯さないこと、神から生まれた方がその人を守っておられ、悪い者はその人に触れることができないことを、私たちは知っています。(1ヨハネ5:18)

 

唯一すべてを裁く権利を持っておられる創造主なる神が、キリストによる赦しを備えて、応答する者が罪を離れて生き続けることを可能にしてくださったのである。一方的な神のわざによって・・。


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