石ころ

勝利を信じる手を上げ続ける(出エジプト17章)

 

さて、アマレクが来て、レフィディムでイスラエルと戦った。
モーセはヨシュアに言った。「男たちを選び、出て行ってアマレクと戦いなさい。私は明日、神の杖を手に持って、丘の頂に立ちます。」(8~9)

 

此処でヨシュアが登場したことで、イスラエルには戦士が養われていたことがわかる。彼らは神とともに神の敵と戦う者である。
モーセの武器は神の杖である。それは神のわざによる勝利の経験を持っていて、勝利が約束されている武器であった。

 

今、私たちも主の戦士。自分自身の肉に勝利して恐れに引き込む悪魔に立ち向かい、みことばの勝利を経験して行く主の戦士である。

 私たちの戦いの武器は肉のものではなく、神のために要塞を打ち倒す力があるものです。(Ⅱコリント10:4)

 

私たちはキリストに在って、すでに勝利の冠をいただくことが約束されている者である。それは人の力には拠らず、キリストに抱かれて死を通り、キリストとともによみがえってたまわったもの。何ものも奪うことができない永遠のいのちである。私たちの戦いは、この約束のみことばに堅く留まることである。

信仰の戦いを立派に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。(1テモテ6:12)

 

ヨシュアはモーセが言ったとおりにして、アマレクと戦った。モーセとアロンとフルは丘の頂に登った。(10)

 

「モーセが言ったとおりにして・・」ヨシュアが神に選ばれている理由は此処にある。ヨシュアは自分が優れていることを現わすために働く者ではなく、命じられた言葉が優れていることを現わすために働く者であった。

 

モーセが手を高く上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を下ろすとアマレクが優勢になった。(11)

 

此処に主により頼む者の訓練がある。初めに主の勝利を証する手を高く上げる時に、世のすべての問題に勝利が与えられる。
先立つ勝利の手がしっかり上がっておらずあやふやなら、その不信仰は敵を元気づけるのである。

 

モーセの手が重くなると、彼らは石を取り、それをモーセの足もとに置いた。モーセはその上に腰掛け、アロンとフルは、一人はこちらから、一人はあちらから、モーセの手を支えた。それで彼の両手は日が沈むまで、しっかり上げられていた。(12)

 

神を証する手を支える者は共に働く者である。人は長い戦いに疲れる弱いものであり、助けが必要なのである。助け手を待ち望みつつ、苦闘している働き人の必要が満たされるように祈ることは、ともに勝利を信じて支えることである。

 

ヨシュアは、アマレクとその民を剣の刃で討ち破った。
主はモーセに言われた。「このことを記録として文書に書き記し、ヨシュアに読んで聞かせよ。わたしはアマレクの記憶を天の下から完全に消し去る。」(13~14)

 

記録によって神を経験することができるのだ。その記録が積み重なるに従って深く神を知ることができる。そのときに信頼も増して行くのである。

細やかな日々の神の助けや恵みを記録して主を覚えることは、主のご真実を読む者に正確に伝えることになり、一人ひとりが経験した福音である。

 

神の勝利を遺すことは多くの人々の救いに繋がるが、神に逆らうものを一々記録しても何の意味もない。悪魔や悪霊に対して作戦を練っても意味は無い。なぜなら、その戦いは主の戦いだからである。
主が私たちと共に戦ってくださる。私たちはみことばに聞き従うことで作戦完了である。遺される記憶は主の勝利だけである。

 

モーセは祭壇を築き、それをアドナイ・ニシと呼び、
そして言った。「主の御座の上にある手。主は代々にわたりアマレクと戦われる。」(15~16)


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