石ころ

神の聖さを悟るために ②(レビ記22章)

 

彼らがわたしへの務めを果たすなら、彼らが聖なるものを冒し、そのために罪責を負って死ぬようなことはない。わたしは彼らを聖別する主である。(9)

 

キリスト者はみな主の祭司である。みこころを行うためにそれぞれに与えられているタラントを用いて、主に仕える祭司は働きのために権威が与えられ、必要のすべてが備えられる。

 

「務めを果たすなら罪を負って死ぬことはない」とある。人は務めを果すときに無知や肉性が混ざることを恐れるが、主が聖別してくださった者の働きは主と共にあり、主はご真実な方であって決して罠にかけることはないのだ。

 

たまわっているタラントは最低の1タラントでも6000日分の給料相当とある。それゆえ祭司は食べることや将来の思い煩いから解放されて、時に世に逆らっても大胆に主に仕えて、その務めを果たすことが出来るのだ。

 

その時聖霊はすべてのことを導いてくださる。今日何を行うべきか、何を語るべきか、すべては日ごとに分厚い聖書から、こんこんと湧き出るいのちの水のように尽きることのなく、導きの言葉に満たしてくださり、宣教の言葉に不自由はさせられない。

 

主のご計画は一人ひとりにあり、そのとき自分で主に聴くことが欠かせないのである。それは、主との個人的な親しい関係において聴く言葉である。直接主から御約束を頂くのは、誰も他人の分まで主と交わることは出来ないからである。

 

あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。(Ⅰペテロ2:9)

 

キリスト者なら誰でも持っている、救いの日のみことばを知らせることであって、救いの形はそれぞれ故に、キリストに出会った日の自分だけのストーリーである。
それは、神の作品である人々を救いに誘(いざな)う材料となり、御子が十字架で流してくださった血潮が、豊かな救いの実を結ぶためのものである。

 

一般の者はだれも、聖なるものを食べてはならない。祭司の居留者や雇い人は、聖なるものを食べてはならない。
しかし、祭司に金で買われた者はこれを食べることが許される。また、その家で生まれた者も祭司のパンを食べることが許される。(10~11)

 

御救いに与った者は祭司であり神に養われていて、自分の力で生きている一般人ではない。みことばはパンのように食べる者を養って、人に聞き続けるだけの乳を飲んでいた者を、みこころを行う者へと成長に導く。

 

奴隷は主人のものであることから、共に住み主人のパンを食べる権利がある。キリスト者は、キリストの命という代価を神に支払われて、世から買い取られて聖くされた。
罪とその結果である死の家から、聖なる神の神殿に移されたのであり、永遠まで生かす主のパンを食べて、光栄な務めを果す者である。

 

キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。(ガラテヤ5:1)

 

みことばに養われている主人がいる家は、共に住む者は救いに導かれて行く。それは生きて働くことばの力である。

ただ、救われても律法の行いから解放するキリストに留まらないなら、自ら奴隷のくびきに留まることであり、行いの自己満足に浸っているのである。パウロはキリストに出会ってそれらを塵芥と捨てた。そうして彼ほど働いた者はいない。

 

みことばの導きは神からのたまものであり、時に叶って働く聖霊の助けによって、十字架のキリストの血がみことばを通して読んだ者をきよめ、キリストが十字架で裂いてくださった肉が、読んだ者の力となって働かせる。

 

聖書はすべての人のために世界中に行きわたり、創造主のことばは告げ知らされている。ただ、主にのみ拠り頼む真実な救いの実を結ぶには、神への渇きを起こさせる聖霊の導きが必要であり、すべてを人の働きだけで完成出来ないことは不思議なことである。

 

切実な聖さへの渇きはキリストの救いの言葉を求めるが、この渇きは聖霊の働きであり、みことばが解き明かされて、人の霊のうちに積み上げられ、主を知らせるために生きて働く力となる。
それは何処までが聖霊によることであるか、自分から出たことであるのか・・定かではない。

 

御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。(ローマ8:16)

 

人は不完全であり主のことばは完全である、不完全な者が完全なみことばを解き明かして、救いに導き入れることなど出来るわけが無いのだ。それゆえ、すべてに神の備えと助けが必要である。それは饒舌さ博学にはよらず、親切心や面倒見の良さによって出来ることでもない。

 

人からのものは何時かボロが出るものであり、みことばは歴史上に完成して行くのである。永遠を通してみことばは神の完全を経験させるものである。
神は天と地を創造された時から緻密にご計画遂行しておられる。すべての造り主だからである。

 

その歴史に神は人を関わらせて宣教を委ねられ、先に救われた者に生きて働くキリストの言葉を、世界中に宣べ伝えるように命じられた。この命令は救われた者がみな知っていることである。

 

イスラエルの子らに、主に献げる聖なるものを冒し、
聖なるものを食べて、その罪過の咎を負わせてはならない。わたしは彼らを聖別する主だからである。」(15~16)

 

祭司に神は、選びの民に「聖なるものを冒かさせるな」と命じられた。
今、キリストによって罪を洗われて御救いに与り、神に仕える祭司とされた者は、主が愛するすべての人に、何が聖でいのちを与え、何が汚れであり滅びに至らせるものであるかを知らせ、すべての人に罪過の咎めを受けさせないようにと命じておられる。

 

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)

 


主はその働きをご自身で行うのではなく、養い育てつつ失敗をする人のリスクを負って、愛の故に共に働くことを計画してくださったのである。


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