イエスさまは弟子の他の者にはたとえで話されたと書かれている。たとえを聞いただけでは弟子ではない。たとえで終わっては群衆の気休め、実を結ばない種で終わってしまう。
種まきのたとえで大切な箇所、
「さて、弟子たちは、このたとえがどんな意味かをイエスに尋ねた。」(ルカ8:9)
弟子は自分たちの特別な立場にあぐらをかいてはいなかった。
押し寄せる群衆の前でイエスさまと居るとき、自分も偉くなったように思えて、知ったかぶりをしてしまいそうだけれど・・、彼らはそんな中で、「私たちも彼らと同じようにわからないのです。教えてください。」と尋ねる謙遜と勇気を持っていた。
弟子であって、奥義を知る権利を持っていても、聞いて学ばなければ得られない。百倍の実を結ぶ種であっても、良い地に落ちなければ実を結べないと書かれている。
みことばを読むとき、師とするイエスさまに「どういう意味ですか」と聞き続けることがとても大切だと学んだ。
弟子なら奥義に至まで教わることができるのだから。
知っているつもりであったり、群衆の中で私語かれていることに満足しているなら、私は実を結ぶことが出来ないのだ。
「だから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられるからです。」(ルカ8:18)
此処で言う、「持っている人」とは、自分は奥義を知らないことを自覚しており、イエスさまに尋ねる必要があると知っている人である。そうして、日常的に聖霊によってそのルートを確保している人。
百倍の実を付ける良い土壌はイエスさまに拠る。日々、みことばを通じての応答によって耕し続けてくださるイエスさまによる。
日常のすべてのことを通して、信仰を掘り起こし宝を現してくださるイエスさま。誤りなく、良き師に訊くことこそ大切なことなのだ。
正しい良い心を守り導いてくださるイエスさまによって・・みことばの光は弟子を永遠に導いて輝く。その燃え続けるエネルギーはイエスさまから出ているから。
「弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。」(マタイ10:24)
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