石ころ

モーセの執り成しによって生かされた40年 ③(民数記14章)

 

主は言われた。「あなたのことばどおりに、わたしは赦す。
しかし、わたしが生きていて、主の栄光が全地に満ちている以上、
わたしの栄光と、わたしがエジプトとこの荒野で行ったしるしとを見ながら、十度もこのようにわたしを試み、わたしの声に聞き従わなかった者たちは、だれ一人、
わたしが彼らの父祖たちに誓った地を見ることはない。わたしを侮った者たちは、だれ一人、それを見ることはない。(20~23)

 

主は生きておられ、地にも主の栄光は満ちているが、主を侮って聴き従わないゆえに、人は神の栄光を見ることができないのだ。

神の奇跡を繰り返し見て、力強い恵みの真ん中を、火の柱雲の柱に守られて生きた者が、祝福の計画を拒絶する不信仰は、神の義によって取り除かれる。
最大の罪は、創造主なる神の恵みを否むことである。不信仰は神の愛を拒絶する行為なのである。

 

神にはどんなことでもお出来になるが、人の心を支配することは出来ない。人を造られたとき、交わりのための自由を与えられたからである。
それ故に、救いのための御子の十字架が必要となっても、それぞれの自由意志による交わりを、期待されたからである。そう、皆がモーセのように主と語ることを・・。

 

ただし、わたしのしもべカレブは、ほかの者とは違った霊を持ち、わたしに従い通したので、わたしは、彼が行って来た地に彼を導き入れる。彼の子孫はその地を所有するようになる。
平地にはアマレク人とカナン人が住んでいるので、あなたがたは、明日、向きを変えてここを旅立ち、葦の海の道を通って荒野へ行け。」(24~25)

 

カレブは「他の人と違った霊を持ち」とある。その霊を受け入れたのはカレブ自身であり、それは、不信仰に拠って拒絶することができるのである。

ご利益を望もうと望むまいと、従順する者が祝福されるのは事実である。その人は神が味方であると信じ、みことばに堅く留まって安息しており、其処に神の良き計画が実を結んで行くからである。

 

神は民が敵に勝利できるみことばを持たないことで、敵を避けて迂回する導きを与えられた。
主の民が敵に勝利するための必要は、巨人のような戦士ではなく、最新の武器でもなく、優れた戦略でもない。ただ一つ主に対する信頼である。
神が一夜にして敵を消すことが出来ないと思うなら、それは聖書の神を知らぬ不信仰である。

 

主はモーセとアロンに告げられた。
「いつまで、この悪い会衆は、わたしに不平を言い続けるのか。わたしは、イスラエルの子らがわたしにつぶやく不平を聞いた。
彼らに言え。わたしは生きている──主のことば──。わたしは必ず、おまえたちがわたしの耳に語ったとおりに、おまえたちに行う。(26~28)

 

口に出した言葉が成るのは原則である。人が救われるのは口にした言葉によってである。
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
「この方に信頼する者は誰も失望することがない。」(ローマ10:10~11)

 


信頼する者は、時が良くても悪くても主の栄光を語り、主をほめたたえ続けのは、救いを得ているからである。

主を否むのも言葉による。それは心にあるものが口に出るからである。
イエスを信じる者の言葉は、イエスから発して事を成し遂げ、サタンの支配はみことばを否定させることで、彼らを奪い去る。

 

この荒野におまえたちは、屍をさらす。わたしに不平を言った者で、二十歳以上の、登録され数えられた者たち全員である。(29)

 

神のわざを経験した者にはそれだけの責任が伴う。神の愛と御力を知っているなら、神を恐れてその御愛のうちに喜んで住み、その御力に信頼して安息するはずである。愛は応答するものであるから。カレブとヨシュアは主に安息していた。

 

エフンネの子カレブと、ヌンの子ヨシュアのほかは、おまえたちを住まわせるとわたしが誓った地に、だれ一人入ることはできない。
おまえたちが『かすめ奪われてしまう』と言った、おまえたちの子どもについては、わたしは彼らを導き入れる。彼らはおまえたちが拒んだ地を知るようになる。(30~31)

 

子は親の所有物ではなく、命の造り主なる神のものである。それゆえ子らは神が守られる。神から子を庇って、守ろうとすることは愚かさの極みである。
神は彼らのために、御子を十字架につけて、罪の滅びからあがなわれた神なのである。

 

我が子の罪の身代わりに、肉が裂ける鞭を受け、嘲りの中で無実の罪を負い、十字架の苦痛を受けて死ぬことを喜んでする、親がいるのだろうか・・。
しかし、イエス・キリストは御父に従順し、罪びとを愛して、十字架でのあがないを喜んでくださったのである。


この愛の中に留まれと命じるみことばを否む時、神の愛は怒りとなる。旧約の民はキリストの愛を知らずに逆らったが、今は世界中でキリストの愛を知って居り、キリスト者はキリストのうちに在って、いつも主を経験しているのである。

 

しかし、おまえたちはこの荒野に屍をさらす。
おまえたちの子どもは、この荒野で四十年の間羊を飼う者となり、おまえたちがみな、屍となるまで、おまえたちの背信の責めを負わなければならない。(32~33)

 

不信仰から発した荒野の40年の始まりである。不従順の罪科を負って荒野で命の尽きるのを待つ旅となる。
それは今の世も同じであり、創造主なる神のことばに聴かぬ不従順にあっては、ただ、死を待つだけの人生となる。それが80年であろうと、100年であろうと、永遠から見れば朝露のような命である。

 

荒野の唯一の望みは、叫びが届く所に主が居てくださることである。
主の赦しはその40年間に子孫をたまわることにある。そう、主が先祖に誓われた地をたまわる子孫を、産み出す時間を備えてくださったのは、モーセと主の関係に拠るイスラエルの祝福であった。


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