週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた。
見ると、石が墓からわきにころがしてあった。
入って見ると、主イエスのからだはなかった。(ルカ24:1~3)
よみがえられたイエスさまは、石を取り除かなくても出て来られる。石が取りのけられていたのは墓には居られないこと、よみがえられたことを知らせるためである。
女たちが途方にくれていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来た。
恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。
ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。
人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」
女たちはイエスのみことばを思い出した。(ルカ24:4~8)
みことばをすぐに思い出すことができるのは、彼女たちがイエスさまのメッセージを聴いていたからで、心を空っぽにしてみことばを蓄えていたからである。
この女たちは、マグダラのマリヤとヨハンナとヤコブの母マリヤとであった。彼女たちといっしょにいたほかの女たちも、このことを使徒たちに話した。
ところが使徒たちにはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった。(ルカ24:10~11)
彼女たちはイエスさまのみことばを聞く事を喜んでいた。そうして自分にできる行動をし続けたのは、先は見えなくても、聴いた言葉の希望があったからである。
弟子たちは見ることもできず、女の証言を受け入れることもできなかった。だから、みことばを思い出す導きも受けられなかったのだ。
彼らの気落ちが激しいのは、自分たちの計画で一杯の心には、望みのみことばの入る余地がなかったからである。自分の計画を持っている者は、それに反するみことばを受け付けることはないのだ。
しかし、よみがえりのイエスさまの方から彼らの所に来てくださった。
イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。
わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」(ルカ24:38~39)
イエスさまはそのような私たちの所に来て、ご自身を証ししてくださるお方である。弟子を成長させてくださるお方を私は信じる。ご真実な主は、ご自身の選ばれた者を捨てて孤児には出来ないからだ。
それから、イエスは、彼らをベタニヤまで連れて行き、手を上げて祝福された。
そして祝福しながら、彼らから離れて行かれた。彼らは、非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえていた。(ルカ24:50~53)
女たちは今も主の御側に居て、主の弟子の成長を見ている。
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