石ころ

祭司の勤め (ルカ23章)




そのときすでに十二時ごろになっていたが、全地が暗くなって、三時まで続いた。
太陽は光を失っていた。また、神殿の幕は真っ二つに裂けた。
イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。(ルカ23:44~46)
神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。(マルコ15:38)


人と神を隔てていた至聖所への幕が、神さまによって裂かれた。十字架によって罪のあがないが完了したからである。イエスさまは神と人の仲介者として、地に遣わされたみわざを終えられた。
もうイエスさまを信じる者は、何時も何処にいても、そう十字架刑に処せられている時であっても「アバ父」に、子としてお話すことができるようにしてくださったのである。

なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである。(ヘブル8:12)


この出来事を見た百人隊長は、神をほめたたえ、「ほんとうに、この人は正しい方であった」と言った。
また、この光景を見に集まっていた群衆もみな、こういういろいろの出来事を見たので、胸をたたいて悲しみながら帰った。(ルカ23:47~48)

イエスさまが神の子であることを証明するのは御父である。キリスト者が神の子であることを証明するものは、
私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。(ローマ8:16)

人は良いことであれ、悪いことであれ「何をしているのか自分でわからない」のである。
だから、イエスさまがご自身を裂いて開いてくださった道を通り、そこで聴いたみことばを語り、与えられた力の中でみこころを行うだけである。しかし、それは人の目にどのように映ろうとも、喜びと感謝に満ち満ちたことである。

ガリラヤからイエスといっしょに出て来た女たちは、ヨセフについて行って、墓と、イエスのからだの納められる様子を見届けた。(ルカ23:55)

マリヤが十字架の一部始終を見て、墓まで行き、葬られるところまで「見ていた」ように、人もまた、自分の中で起こる主のみわざを見たままを語り、主に聞いた言葉を伝えるだけである。
人は何の計画も持ってはいない。なぜなら計画をお持ちなのは神さまだからである。何を見るのか・・、何を聞くのか・・、主が準備しておられる明日だけが知っていることである。
だから日々の新しさの中にワクワクしているのだ。

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