石ころ

罪の重荷から解かれて





「神によって生まれた者はだれも罪の中に生きないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。」(Ⅰヨハネ5:18)


 信仰とは何処にいるのかということである。「あなたはどこにいるのか」と主が探さなければならない所に隠れてはいけない。
キリスト者の事実は、肉の目に見えることではなくみことばにある。みことばを信じる信仰によって、十字架の赦しによる御父と御子と聖霊の交わりの中に居ることなのだ。

「だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。」(Ⅰヨハネ4:15)
私たちのうちに居ます神は、御父、御子、聖霊の三位一体の神であり、天地創造、全能の神である。

なんということであろう・・それは信じがたいのは当然であるけれど・・、このことに関しての不信仰はサタンの餌食、神の悲しみである。
「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:14)
それはひとえに信仰なのである。

 エデンの園に植えられた「善悪の知識の木」は、この日のためであった。
放蕩息子が家に居た頃と帰ってからでは、父と子の交わりの質はまったく違うだろう・・。
今、人は神の愛を御子の十字架によって確認して御許に帰ったのである。
だからこそ、その交わりの中に置かれている私たちは、すべての思い煩いから解放されて、このみことばに生きることができるのだ。

「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」(マタイ22:37)


今生きるのは、御父、御子、聖霊なる主に心を向け、常に思いを寄せて、愛する方を知ろうと知力を尽くし、時間をかけて解き明かされてゆくみことばを楽しむためである。やがてリアルに御会いする日まで・・。

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