「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。」(マタイ7:12)
「自分にして貰いたいことを他人にする」これは愛の現れだ・・律法って愛なのか!と驚いた。
愛の神が与えたものだから愛であって当然だけれど・・。
ただ、愛を行う力がなくて・・、また、それを他に向けて命じるとき、また自身に向けて責める道具となると、それは縛りとなり責め立てて罪に定め、滅びに向かわせるものとなったのだ・・。
「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」(マタイ5:17)
愛を命じられても、人には真に自分がしてもらいたいこと、また自分の真の必要なものが何かわからないのだ。だから人にすることも分からない。また、分かったとしても、力が無くて出来ないことに気付いた時イエス様が来てくださった。
イエス様が成就してくださったことに安息するなら、律法的といわれている生き方とはまるで違う平安のうちに、用いてくださる主のいのちによって出来てしまうのだろう・・。
そのとき始めて私たちは、的外れではない「してもらいたいこと」に出会うのだと思った。
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