主はモーセに言われた。「わたしはファラオとエジプトの上に、もう一つのわざわいを下す。その後で彼は、あなたがたをここから去らせる。彼があなたがたを去らせるときには、本当に一人残らず、あなたがたをここから追い出す。(1)
「本当に一人残らず追い出す。」このお言葉は、主に在る者は一人残らず導いて行ってくださるということ。主は出来不出来によって選択されることはなく、主に信頼する者が取り残されることはない。
そう、携挙の日にもキリストのうちに居る者が取り残されることは無い。それは、みことばに望みを託す者の今日の平安であり、みことばを語ることの恐れをも取り除いて勇敢にしてくださることである。
さあ、民に言って聞かせよ。男は隣の男に、女は隣の女に、銀の飾りや金の飾りを求めるように。(2)
近しい人々の好意によってイスラエルの民は、戦わずして奴隷の報酬を得たのである。
今、神が私たちを用いられる場所は遠くの知らない所ではなく、世で日々を共に生きいる場所を用いられる。神のわざは私たちの日常にあるからである。
みことばを伝える血の責任も神が置かれた場所にあって、長い年月の神のわざによって成させてくださることである。
主は、エジプトがこの民に好意を持つようにされた。モーセその人も、エジプトの地でファラオの家臣と民にたいへん尊敬された。(3)
神はエジプトの民が好意をもって喜んで差し出すようにされ、イスラエルの民に卑屈な思いや恐れを感じさせることはなく、すべては親しい平和の中にあった。
奴隷であった彼らの得た尊敬は主から出たことである。モーセたち神の民がエジプトで搾取されて来たものを要求することは、主には正当なことであり、それらの金銀は神殿の材料となったのだ。
神は私たちの心も体も財産も結果において守られる。聖霊は造られた時の神のかたちを現わさせ、うちにおられるキリストから出る香りによって、救われるべき人の好意を得させる。それは厳しいみことばを伝えても変わることのないものであり、人の顔色を窺うような浅薄な取り繕いには拠らない好意である。
モーセは言った。「主はこう言われます。『真夜中ごろ、わたしはエジプトの中に出て行く。(4)
主が真夜中のエジプトに出て行かれるのは裁きのためである。いのちの造り主が死をもって行かれることは、十回の警告にも従わなかった結果であり、ファラオが神を侮った罪の結果である。
エジプト中の裁きは、神を恐れない者のもたらせる結果が、多くの人に悲惨な影響を与えることを知らせている。
しかし、ひとりの人が神を信じるときの恵みの大きさを神はこう言われる。
わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。(出20:6)
エジプトの地の長子は、王座に着いているファラオの長子から、ひき臼のうしろにいる女奴隷の長子、それに家畜の初子に至るまで、みな死ぬ。
そして、エジプト全土にわたって大きな叫びが起こる。このようなことは、かつてなく、また二度とない。』(5~6)
神はこのようなことは「二度とない」と誓われたことは、それがどれほどの神の痛みであるかということである。
それゆえ神は御子を遣わして、人の弱さを覆う救いの方法を備えてくださったのである。キリストのあがないを信じるだけで救われるという驚くべき人に有利な、単純な救いの備えである。
罪をあがなうための捧げものはキリストであり、罪の恥も苦しみもキリストが十字架で身代わりとなり、愛するひとり子を遣わされ神の痛みとされたのである。
しかし、王が故なく幼子を殺すことが二度起きている。モーセが生まれた頃イスラエルの男の子は、ファラオの命によってナイル川に投げ込まれ、イエスの誕生の時には、ベツレヘム一帯の1~2歳の男の子はヘロデの命によって殺されたのだ。
今もこの世界にジェノサイドが行われ不法な虐殺を聞く。神はなぜ介入されないのかと思うが、人は皆一度死ぬ者であり、神が与えようとしておられるいのちは永遠のいのちなのである。
神の正義はこのエジプトに行われたように、すべての人に造り主なる神、力ある神を知らせるためのものであり、それは人の復讐とは違っている。神の復讐は永遠の滅びと、永遠のいのちによる裁きである。
人にとって神の義の戦いとは、血肉によるものではなく神を宣べ伝えることにあるのだ。
私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。(エペソ6:12)
神が死を宣告されるときそれは永遠の滅びである。しかし、この世の王はどれほど残酷であっても肉体の死以上のものを与えることはできない。それは、神を信じる者には永遠のいのちに至るゴールとなる。
それゆえ神は殉教を許しておられる。それはこの世だけに生きる者ではなく、天に国籍を持つ者の誇り高い人生なのである。