ヨハネの福音書とイザヤ書を通読している。本当に聖書というものは、何処を読んでいても、改めて主の備えてくださった救いの仕組みに感動することとなる。
「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」(ヨハネ1:12~13)
弟子にとってイエスさまを知るきっかけは、ただ、そのまま「来て」「見よ」であり、条件も制約もなく、修行も学びもない。
身許に行った者は救い主を見ることができるし、お側にいることも無条件にゆるされる。それは今、私たちの救いにも同じことなんだ・・。主が育て、主が生かしてくださる。
結婚式に葡萄酒が切れた花婿は、ただ、イエスさまを招いたことによって面目を施した。
「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」(ヨハネ2:10)
この言葉から彼がケチであったことが分かる。悪い葡萄酒をわずかにしか準備しなかったのだから・・。いや、貧しかったのかも知れないけれど・・。少なくとも彼のした良いこととは、イエスさまを招いた事だけである。
イエスさまのために特別に何かを準備したわけではないのに、大きな助けを受け豊かに祝福された結婚式となった。
イエスさまと居ること、イエスさまに身を避けることは子供にも老人にもできる。弱い者、賢くもない単純な者の方が自然にできる。
主の備えてくださった救いはひとつのことしか要求しない。それは、どんな人でもできること。
しかし、人が新しく生まれるためには産道を通らなければならない。産道は狭く古い息を吸い込んだままでは通れない。自分の中にあるすべての息を吐き出して、死を通るようにして生まれてくる。
でも、そこを通らせてくださるのは神のわざである。人の意欲ではなく、神によって生まれるのだから・・。
その産声は新生の歌・・その喜びは永遠に続き終わることはない。
「私は心を尽くしてあなたに感謝します。天使たちの前であなたをほめ歌います。」(詩編138:1)
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