石ころ

行ってはならない (民数記22章)

 

神はバラムのところに来て言われた。「あなたと一緒にいるこの者たちは何者か。」
バラムは神に言った。「モアブの王ツィポルの子バラクが、私のところに使いをよこし、
『今ここに、エジプトから出て来た民がいて、地の面をおおっている。さあ来て、私のためにこの民に呪いをかけてくれ。そうしたら、おそらく私は彼らと戦って、追い出すことができるだろう』と申しました。」(9~11)

 

神に逆らった罪は呪うことを覚えさせ、支配できないものは殺しても自分が生きることを覚えさせた。
しかし人は、創造主である神の霊を吹き込まれ愛の中に生きて、自分が愛されているように他を愛し、祝福するように造られた者である。

このことは建前ではなく、キリストの十字架のあがないによって知る事実であり、聖霊の助けによって実現することである。

 

神はバラムに言われた。「あなたは彼らと一緒に行ってはならない。また、その民をのろってもいけない。その民は祝福されているのだから。」(12)

 

人は神のことばに拠って守られて生きる者である。
神は敵をも愛せよと言われ、みこころに添うことで神の祝福は流れて来る。神に造られた者は呪うことで生きるのではなく、祝福することで主と共に永遠を生きる者である。

 

キリストはご自身を十字架に付けた者のために、父なる神に執り成して祈られた。キリストが愛されなかった人は一人もいないのだ。自分を殺す者さえ愛されたのだから。

 

キリストの御愛を聖霊によって知った者は人を呪うことは出来ない。腹を立てる瞬間があっても、憎み続けることは出来ないのである。罪人である私のために死んでくださった愛、キリストの心を知った時から・・。

 

バラムはバラクの家臣たちに答えた。「たとえバラクが銀や金で満ちた彼の家をくれても、私は私の神、主の命を破ることは、事の大小にかかわらず、断じてできません。
ですから、あなたがたもまた、今晩ここにとどまりなさい。主が私に何かほかのことをお告げくださるかどうか、確かめましょう。」( 18~19)

 

バラムはみこころを知っておりながら彼らを留め置いた。此処にバラムの信仰の闇がある。彼はバラクの誘いに揺れたのだ。
みこころをはっきりと知っていながら、即座にそれを行わないでいることは非常に危険である。

 

アブラハムはイサクを捧げるように命じられた時、翌朝早くに出発をした。
「もう一度祈って確かめてみよう、あるいは違うことを言われるかもしれない。」などとは考えなかった。それが彼の信仰である。

ノアが空を見上げて「明日もう一度確かめてみよう。」と考えるなら、二日目には造ろうと思うだろうか・・。

 

バラムは言葉と行いが合っていなかった。「主の命に逆らうことは断じてできない」と言いつつ、「行くな」という明確な主の言葉によっても去らせない心に、彼がこれまで主の言葉を商売にして来たような汚れを見るのである。


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