石ころ

真っ直ぐに語れ(出エジプト5章)

 

モーセはアロンに主のことばを伝え、モーセとアロンは民に神のわざを見せて、神のことばを伝えた。

民は信じた。彼らは、主がイスラエルの子らを顧み、その苦しみをご覧になったことを聞き、ひざまずいて礼拝した。(4:31)

 

奴隷の苦難にある民の喜びはどれほどであろう。しかし、絶望の中でみことばの希望を頂いても、即座に現状が変わるわけではなかった。
昔も、今もみことばを聞いた時に必要なのは信頼して待つことである。その時間が神への捧げものとなる。

 

その後、モーセとアロンはファラオのところに行き、そして言った。「イスラエルの神、主はこう仰せられます。『わたしの民を去らせ、荒野でわたしのために祭りを行えるようにせよ。』」
ファラオは答えた。「主とは何者だ。私がその声を聞いて、イスラエルを去らせなければならないとは。私は主を知らない。イスラエルは去らせない。」(1~2)

 

神が初めにモーセに言われた通りに、王は彼らの願いを聞き入れなかった。此処でモーセたちの成すべきことは、神のことばを真っ直ぐに伝えることだけである。

 

彼らは言った。「ヘブル人の神が私たちと会ってくださいました。どうか私たちに荒野へ三日の道のりを行かせて、私たちの神、主にいけにえを献げさせてください。そうでないと、主は疫病か剣で私たちを打たれます。」(3)

 

モーセたちは王を恐れて神のことばを言い換えている。神は「あなたの長子を殺す」と言われたのである。口が上手いということは、往々にして言葉を言い換えるものである。伝えよと言われた言葉は

 

「わたしはあなたに言う。わたしの子を去らせて、彼らがわたしに仕えるようにせよ。もし去らせるのを拒むなら、見よ、わたしはあなたの子、あなたの長子を殺す。」(4:23)
 


神のことばを曲げる時に苦しみが長引くことになる。王に伝わったことは、彼らが神に打たれたくないという言葉になってしまい、王にはすべてが彼らの保身のために見えた。これでは神が王に伝えようとした警告が伝わらない。

 

その日、ファラオはこの民の監督たちとかしらたちに命じた。
「おまえたちは、れんがを作るために、もはやこれまでのように民に藁を与えてはならない。彼らが行って、自分で藁を集めるようにさせよ。(6~7)

 

神のことばを伝えたとき、イスラエルの民の労働は以前にも増して重くなり、レンガ作りの量を変えずに材料の藁を集める仕事が加えられた。

 

あの者たちの労役を重くしたうえで、その仕事をやらせよ。偽りのことばに目を向けさせるな。(9)

確かに、モーセたちは王に偽りの言葉を伝えた。王はその偽りを悟った。みことばを忖度して言い換えた時に、相手に伝わるのは「嘘だ」という事実である。その言葉は神から発した言葉ではないからである。

 

監督たちは彼らをせき立てた。「藁があったときのように、その日その日の仕事を仕上げよ。」(13)

 

王は、モーセの言葉から民の目を反らせるには、厳しい労働によって、彼らを疲弊させることが有効と判断したのである。ブラック企業もこのような方法によって、社員の判断力を奪うと聞いたことがある。それは盲従させるための手段である。

 

打ち叩かれたイスラエルのかしらたちは、王の所へ苦境を訴えに行って、すべての原因がモーセの言葉から出ている事を知った。

 

彼らは二人に言った。「主があなたがたを見て、さばかれますように。あなたがたは、ファラオとその家臣たちの目に私たちを嫌わせ、私たちを殺すため、彼らの手に剣を渡してしまったのです。」(21)

 

みことばを語ってみこころを行おうとする時、一時的には悪いことが起こることがある。穏やかな関係がギクシャクして、それまで保ってきた平和な日々が壊されるからである。

 

わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはいけません。わたしは、平和ではなく剣をもたらすために来ました。(マタイ10:34)イエス・キリスト

 

人は奴隷でさえも昨日と同じ日が続くことを望む。目の前に現れた問題を信仰によって超えて行くには、聖霊によって与えられる神への信頼、それによって踏み出す勇気が必要である。

キリストに信頼して生きることは、自己中心な生き方から180度向きを変えて、みことばに導かれて生きることである。そこには永遠に至る守りがあるが、それは昨日までの慣れきった平和との戦いであり、未来を見ようとしない盲目との戦いがある。

 

何もしなければ生まれながらの罪によって、命は罪の中で疲弊して滅びて行く。
サタンが作り出したブラック企業のような世で、ただ、明日のことだけにいっぱいいっぱいのうちに命を浪費して、差し出された神の救いの御手を無視して終わることになる。

 

昨日と同じ関係を保つためには何もしない方が賢いが、その行き着く先が滅びであることを知った者が、何も伝えないことは愛さないことである。永遠のさばきの火が迫っているのに危険を伝えず、キリストの救いを伝えないことは見殺しにすることである。

 

世はサタンの舞台であり、彼らは王のように振舞って神の民さえも支配しようとする。その方法は「平和のためには昨日のように今日も黙っていろ」と脅すのである。しかし、その平和は救いの時間を食い尽くすものであり、その先に待っているのは、愛する者が処理されていない罪によって永遠に焼かれる炎なのである。

 

私のはらわた、私のはらわたよ、私は悶える。私の心臓の壁よ、私の心は高鳴り、私は黙っていられない。私のたましいが、角笛の音と戦いの雄叫びを聞いたからだ。(エレミヤ4:19)


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