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石ころ

昨夜は久しぶりの雨に潤されて、雨音を惜しんで窓を少し開けたままで床についた。寝返りを繰り返しながら、十字架のイエスさまに思いを巡らせていた。
イエスさまは、実際は一糸まとわぬ姿で十字架にかかってくださったのだと聞いて、私はショックを受けたことがあった。

アダムが罪を犯して神から隠れたのは、罪を知った自分の裸を恐れたからだった。人にとって何よりも恐れるのは、群衆の前に自分の裸の姿をさらすこと。それは普通の神経では耐えられない。
たとえ罪を犯し裁かれるときでも、一糸まとわぬ裸にまでされることはない。それは性的なことだけではなく、もっと深い罪の意識の部分だから。

イエスさまはそんな肉の無様な姿を、私に変わって引き受けて下さったのだと思う。
私もイエスさまと共に、人前で十字架にかけられたような経験があったけれど、私の裸の姿はイエスさまに覆われていた。

自分の言葉で語るとき、恥ずかしさや愚かさがさらけ出されて、まるでさらし者になったような時があり、耐え難い思いをすることがあっても、それは私の心の中で起こっていることであって、実はすでにイエスさまによってあがなわれている。
その、十字架の上では、主に抱かれて黙っておればよい。何が起こっても静かに受け入れて、主の愛に信頼しておればよい。

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。(ガラテヤ2:20)

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。(ヘブル12:2)

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