石ころ

血の花婿(出エジプト4章)

 

 モーセは主に言った。「ああ、わが主よ、私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」(10)

 

神に向かって、良いことでも悪いことでも自分を語ることはとても失礼である。それは「あなたはご存じないでしょうけれど」と言っていることだからである。

 

主は彼に言われた。「人に口をつけたのはだれか。だれが口をきけなくし、耳をふさぎ、目を開け、また閉ざすのか。それは、わたし、主ではないか。
今、行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたが語るべきことを教える。」(11~12)

 

モーセは、創造主が選ばれたということを忘れている。本当にこのことは単純な事実なのに人は気付かない。当然、モーセ自身よりも神の方がよくよくご存じなのだ。

 

神が「あなたの口とともにあって」と言われた。これほど完璧な備えはない。
神からご用をたまわるとき自分を見てはならない。自分を惜しんではならない。失敗を恐れてはならない。もし、神が失敗を備えられたのなら、その失敗によって神のご計画が前進するだろう。それは光栄なことである。

 

 キリスト者もモーセと同じような言葉を口にする。しかしモーセが拒んだことと、キリストの十字架による御救いを受けていながら、拒むのとではまったく違う。
私たちに、どれほど神は忍耐されていることだろう。イエス・キリストのゆえに赦されていることであろう。

 

しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。(Ⅱコリント12:9)

 

人は誰にでも欠けがあり、その部分を補ってもらわないと生きられない。神が完全な人を造られないのは、不足分に関り続けてキリストの血潮に洗い、聖い神の子と成して平安のうちに留まらせ、愛して永遠を共にしてくださるためである。

 

 すると彼は言った。「ああ、わが主よ、どうかほかの人を遣わしてください。」
すると、主の怒りがモーセに向かって燃え上がり、こう言われた。「あなたの兄、レビ人アロンがいるではないか。わたしは彼が雄弁であることをよく知っている。見よ、彼はあなたに会いに出て来ている。あなたに会えば、心から喜ぶだろう。(13~14)

 

誰が、自分に信頼して神のわざを行うことができるだろう。ただ神に信頼して神の備えを経験させて頂くのであり、神はモーセの饒舌を期待してはおられず、力ある神のことばを経験させようとしておられるのだ。

 

神は使えないモーセに妥協してアロンを加えられた。
最高の光栄を受けよと選び、わざを経験させて説得されても、モーセは自分自身を手放さず、神に信頼しなかったのである。

 

「主の怒りが燃え上がり・・」とあってアロンを加えられた。アロンが間に入ることによって、結果多くの民が死ぬことになる。

こうして主は民を打たれた。彼らが子牛を造ったからである。それはアロンが造ったのであった。(32:35)

 

主はミディアンでモーセに言われた。「さあ、エジプトに帰れ。あなたのいのちを取ろうとしていた者は、みな死んだ。」(19)

 

神は「いのちの危険はないからエジプトへ帰れ」と言われたのだ。そこでやっとモーセは腰を上げた。もう断る理由を失ったからであろう。

 

そこでモーセは妻や息子たちを連れ、彼らをろばに乗せて、エジプトの地へ帰って行った。モーセは神の杖を手に取った。(20)

 

モーセは自分のものをすべて連れて行く中で、杖を持った。神が用いた臨在の杖である。その杖を持ったとき、モーセも神のわざのリアルな感覚を覚えただろう。

 

主はモーセに言われた。「あなたがエジプトに帰ったら、わたしがあなたの手に授けたすべての不思議を心に留め、それをファラオの前で行え。しかし、わたしが彼の心を頑なにするので、彼は民を去らせない。


 そのとき、あなたはファラオに言わなければならない。主はこう言われる。『イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。
わたしはあなたに言う。わたしの子を去らせて、彼らがわたしに仕えるようにせよ。もし去らせるのを拒むなら、見よ、わたしはあなたの子、あなたの長子を殺す。』」(21~23)

 

神はモーセに今後の計画を話された。神はエジプトで成すことを示し、それがすぐには成功しないことも伝えられた。
事は一朝にして成るわけではなく、彼は神のことばを申し渡す者として、王の前で振舞わなければならないのである。王を恐れては語れないことばを・・。

 

さて、途中、一夜を明かす場所でのことだった。主はモーセに会い、彼を殺そうとされた。(24)

 

モーセは今のままでは働けない。彼が神に完全に信頼せず自分自身を惜しむ限り、神のことばを真っ直ぐには語れないのだ。モーセの惜しむ命が死を経て、新しく生まれなければ、エジプトで神のわざは成らないのである。


 
そのとき、ツィポラは火打石を取って、自分の息子の包皮を切り取り、モーセの両足に付けて言った。「まことに、あなたは私には血の花婿です。」
すると、主はモーセを放された。彼女はそのとき、割礼のゆえに「血の花婿」と言ったのである。(25~26)

 

神はモーセを殺そうとされた。罪の支払う報酬は死であり、罪の中で最も重い罪は神に信頼しない罪であるから。一方、神は彼のために妻のツィポラを備えておられた。

 

モーセの不従順の罪を洗うために、ツィポラは律法に従った血をもってモーセを守った。ツィポラがモーセに血を塗って救ったことは、キリストのあがないのようである。
そう、罪をあがなうものは従順の血の他には無いからである。ツィポラは従順の血によってモーセを取り戻したのだ。
神も、新しくされて「私は・・」と語るものを持たないモーセを取り戻された。


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