五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。(1)
彼らは集まってイエスさまから聴いたことばの訪れを待っていた。そう、それはもう恐れて隠れているのではなく、彼らは一つになって、みことばの実現を祈り求めていたのだ。
すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。(2~3)
イエスさまがバプテスマを受けられた時は、聖霊が鳩のように天からくだってこられた。使徒たちの時には炎のようであった。
私は洗礼を受ける前に聖霊のバプテスマを受けた。焼け火箸のような炎が、頭のてっぺんから足の先までを貫い時、はっきりと古いものが焼き尽くされて、新しくされた確信を得た。
聖霊によって感情を支配されたことはないが、この時の驚喜は、新しくされた喜びで平静を保てず、部屋を駆け回って叫んでいた。家族が留守で良かったのだ。
すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。(4)
異言は御霊に導かれて神を語っているが、語っている本人は、自分の知らない言葉で語っており、内容が分からないままに語るのだ。
異言を語る時に必要なことは、聖霊なる神への信頼と従順である。良き方からの、良きたまものに信頼して語るからである。
知性は肉であり、それはいつも自分ですべてを判断している。それゆえ、自分の理解できないことは嫌悪する。そうして人は身を守って来たからである。それゆえ、異言は神への確かな信頼がない所では語られない。
弟子たちの異言は、イエスさまが命令された「世界に出て行って福音を伝える」働きのための備えである。みことばを宣べ伝えて、聞いた人の救いに至るのは、聖霊の働きに拠ることである。聞く人の霊に届くことばを、神が備えてくださったのである。
この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。
彼らは驚き怪しんで言った。「どうでしょう。いま話しているこの人たちは、みなガリラヤの人ではありませんか。
それなのに、私たちめいめいの国の国語で話すのを聞くとは、いったいどうしたことでしょう。(6~8)
聖霊の来臨は、大勢の人々が集まってくるほどの物音「天から激しい風が吹いてくるような響き」とある。事実は突風なのか、落雷なのか、「・・のような」ではわからない。
一々卑近な例を持ち出して申し訳ないが、私は聖霊のことにまだ無知であったので、自分に起こったことを誰にも話さなかったが、教会に導いてくださった姉妹にだけ起こったことを伝た。
彼女はシンプルに「ちょうどその頃、何かが起こったことがわかった」と言われた。彼女は霊的なことには興味を示されない方であったが、私に起こったことをすんなりと認めてくださった。彼女は感じたのだった。
ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレテ人とアラビヤ人なのに、あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。」
人々はみな、驚き惑って、互いに「いったいこれはどうしたことか」と言った。(11~12)
人の力を誇り高ぶってバベルの塔を造っていた人々が、その作業から散らされたのは、言葉が通じなくなったからであった。その時以来、世界は多くの言葉に分かれ、互いのコミュニケーションが困難になったのだ。
聖霊によって、弟子たちが多くの国の言葉を語りだしたのは、全世界に伝える福音のために、神が言葉を備えられたことのデモンストレーションのようである。
あらゆる国の人々が、神のことばによって一つとされ、ひとりのキリストの花嫁となるために・・。
しかし、ほかに「彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだ」と言ってあざける者たちもいた。(13)
人は自分の賢さや知識が唯一だと信じている。それゆえ、理解できないものを受け入れることができず、神の支配に服する霊を排除し攻撃するのだ。
肉が何処ででも圧倒的な力を持っているのは、代々サタンの下にあって、肉性によって生きる術を身に着けてきたからである。
酒に酔っている者は、自分をコントロールすることができないが、聖霊に満たされている者は常に自由である。感情も、知性も、冷静に主のご支配に委ねているのであり、それは、細やかなコミュニケーションの中に保たれている。
霊にも色々あり、自由を奪う霊が神からのものではないことは容易にわかる。神が人に与えた自由意思は、御子の命と引き換えにされたほどのものである。
霊の交わりを感覚で知ることはなく、みことばの解き明かしや、信仰生活のすべてを通して知ることであり、異言の祈りも、賛美も、主に賜ったたまものを用いる奉仕であって、自分の感情を喜ばせ、満足させることはない。