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石ころ

「わたしについて来なさい」


 今日まで、しんどさの中にすっぽりと嵌ってしまっていた。
カレブの85歳になっても40歳と少しも変わらない信仰、その行動力について書かれている箇所を読んでいて、今日深く心に響いてきた。
なぜ私はこんなに疲れているのか、年を数え、世を見て気落ちしているのか・・、

 カレブは年を取っても、神から目を反らせることがなかった。だから彼は年老いても、その信仰も力も少しも変わることはなかった。
彼の力は若いときも、老いても、常に神により頼んでいたのだ。それは永遠に変わらない力だから・・。

カレブは言っている。
「ただ、主に背いてはならない。あなたたちは、そこの住民を恐れてはならない。彼らは我々の餌食にすぎない。」(新共同訳 民数記14:9)

すべての事情はアナク人となると言っている。それはキリスト者の食べものであり、成長の糧とてして主が置かれたものである。
老いも、時代のもろもろの状況も、すべてはキリスト者の食べものであり、成長の糧であった。
そう、確かにその時に私たちは主のわざを経験する。その困難の中で生きて働かれる主にお出会いする。


 しかし・・
「今日、私が見つめるみことばとは何でしょうか。」と主にお聞きした。

「わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。」(ヨハネ12:26)

なんと、ぼんやりとした話しだろう。ちゃんと先に与えられていたみことば。
確かにそれは、何に対して与えられた言葉であるかはわかっていたのに・・。
私はその言葉の重さを聞き漏らしていた。軽く受けてしまって聞き流していた。

 みことばの意味が突然あふれてきた。
「わたしについて来なさい」
という言葉は、主について行くことを赦してくださったということであり、主について行くことが可能なのだ。主は出来ない事を言われることは無い。出来るように助けて下さるお方であることは知っている。

「わたしがいる所に・・いるべきです。」
主の居られるところ!それを赦されると言うことがどんなに素晴らしいことか! 栄光と力に満ちているところ。そこに主と共に居なさいと言われているのだと・・。

 与えられたみことばを聞き漏らし、聞き流してしまったから、世と自己の現実に押し流されて、弱さに閉じ込められてしまっていたのだろう。
主の約束から目を反らしてしまっていた・・。
メニエール病の症状には、「目が振れる」という症状もあるらしいけれど、なんだか象徴的。私は激しい目眩に襲われていた・・。

 私は「主に仕える。」と告白したことを覚えていなければならない。日々みことばの約束から目を反らさずに、しっかりと主について行かなければならない。主のおられるところに、その素晴らしい所に留まり続けて居なければならない。
そうして、そのことを成させて下さるのもイエスさま!


「ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。」(ヘブル2:1)

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