人の子に逆らうことばを口にする者でも赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、この世でも次に来る世でも赦されません。(32)
御霊を冒瀆する時、神の国に入れないだけではなく、この世でも神の恵みを受けることができないのは、キリストの内住に拠る恵みのことであり、キリストからたまわる平安や、みことばの解き明かしによる導き、悪いものからの守りが受けられないからである。
まむしの子孫たち、おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えますか。心に満ちていることを口が話すのです。(34)
真実を語るイエスに「まむしの子孫」と呼ばれた者は、神の証である御わざをベルゼブルのわざと言って、自分の心に在るものを告白したのだ。
そのとき、律法学者、パリサイ人のうちの何人かがイエスに「先生、あなたからしるしを見せていただきたい」と言った。(38)
なをも彼らは神である証拠を見せろというが、イエスのわざは群衆でさえ知っていることである。たとえ、彼らの目の前で神のわざを行って見せても、彼らの不信仰が証されるに過ぎない。
しかし、イエスは答えられた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めますが、しるしは与えられません。ただし預言者ヨナのしるしは別です。
ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。」(39~40)
キリストが十字架に死んで墓に葬られ、三日目に復活されたことを知っても、彼らの心が変わることはなかった。
このことは、今もすべての生きている者に永遠のいのちを選び取るか、永遠の滅びを選んでしまうかと訊く重大なことなのである。
人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている(へブル9:27)
神が創造された人類は一人残らず、死後に神のさばきを受けることになる。
その時に問われるのは、ただ一つ「救い主であるイエスを信じて罪赦されているか」ということ。
救われる人は、真っ直ぐにイエスに罪を告白して赦しを受けるが、滅びる人は、自分を正しいとする理屈を並べる中で救いのチャンスを逃す。
パリサイ人のゆえではなく、キリストを信じ受け入れないことによって滅びるのである。
神は人を造られた時に自由意志を与えられた。神のわざを見ても、聞いても、経験していても信じないのは自由の中で選んだことである。
「偶然だ」と言い、「運が良かった」と言い、「お札(おふだ)やお守りの御蔭だ」と言い、「行いが良かったからだ」と、創造主なる神の恵みや憐みを軽んじ、感謝することも礼拝することもなく、神の忍耐の中で与えられている時間を浪費して時間切れとなる。
その人たちには、キリストの十字架のあがないは無益であり、愛するひとり子をたまわったほどの神の愛が報われず、御父に従順して命をたまわったほどのキリスト愛が救いの実を結ぶことはなく、神の怒りとなるのである。
神はイエスによってご自身の愛を知らせ、神の存在を証する聖書によって救われるようにと、歴史に見るあらゆる迫害を通っても、聖書は世界のベストセラーであり、それは神の守りと憐みに拠ることである。
イエスは弟子たちの方に手を伸ばして言われた。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。
だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら、その人こそわたしの兄弟、姉妹、母なのです。(49~50)
イエスが神の家族と認めてくださった者は、人にどのように見えようとも神の国の者であり、イエスがまむしの子孫と言われたならその通りなのである。それが人の謙遜であるから。
神の子とされるのは、イエスをキリストと信じる信仰のみである。その時、「信じることができますように」という願いは、まむしの要求とは違う。愛の神はその願いを喜んで受け入れ、あらゆる事を通して信仰に導いてくださる。たとえ何十年かかっても・・。