石ころ

「主よ、来てください」 (ルカ17章)




 使徒たちは主に言った。「私たちの信仰を増してください。」
しかし主は言われた。「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ。』と言えば、言いつけどおりになるのです。」(ルカ17:5~6)


「信仰を増してください。」と言った弟子たちは勘違いをしている。目の前で行われる主のみわざを見て「神の御子」と告白しても、それは信仰ではなく見たままなのである。彼らにはまだ信仰の有無を確かめる時はなかった。

信仰の有無がわかるのは人の目にキリストが見えない時であり、目の前の状況がみことばと一致しない時である。
私に信仰は無いけれども、今は「信仰の創始者であり、完成者であるイエス」がおられる。それゆえ私は信仰を持っている。「わたしのものは全部おまえのもの」と主は言われた。

 さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。
『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」(ルカ17:20~21)


神の国は人の目に認められないとある。事実、目の前で主が話しても、彼らは認めることができなかったのである。主こそ神の国、パリサイ人の目の前にあった。
しかし、それはみことばに伏して初めて知ることであり、みことばに飛び込んで賜る神の国である。

パリサイ人が「いつ」と尋ねて、主は「あなたがたのただ中」と答えられた。時はもう来ているのだ。
人が「いつ」と問うことは、その時を知ってから準備をしようとするからである。しかし、そのような余裕はない、それはいなずまのように一瞬であると書いてあるから。

イエスは弟子たちに言われた。「人の子の日を一日でも見たいと願っても、見られない時が来ます。(ルカ17:22)
いなずまが、ひらめいて、天の端から天の端へと輝くように、人の子は、人の子の日には、ちょうどそのようであるからです。(ルカ17:24)
主の日再臨はノアの日のようロトの日のように、ありふれた日々の中に一瞬のいなずまのように来るのである。

自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます。(ルカ17:33)
財産や家系や学歴や権力など・・世には命のように大切に思うものは色々とあるが、パウロはそれらを塵芥と捨てた。
時は来ている今、世を振り返るならロトの妻のようになる。その日には二人のうち一人は残されると書いてあるから。

弟子たちは答えて言った。「主よ。どこでですか。」主は言われた。「死体のある所、そこに、はげたかも集まります。」(ルカ17:37)
「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。(黙示録3:1)

死んだ行いの中には死体があるのだ。はげたかの餌になっていてはいけない。
主に在れば常に備えられてあり、「どこ」と問うことも「いつ」と問う必要もない。

しかし、人の子はまず、多くの苦しみを受け、この時代に捨てられなければなりません。(ルカ17:25)
主は何事も前もって備えてくださる真実なお方である。人には十字架による救いをこの日のために備えてくださった。
十字架がなければ人類は全滅だ「義人はいない。ひとりもいない。」から。
今、主のすべての備えの中で「主よ。来てください。」と言う日々。

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