石ころ

叫ぶ (ルカ18章)




 何時ものように霊の賛美、異言の祈りから、マタイ6章の「主の祈り」ゆっくりと願いをこめて・・それから主にお話しする知性の祈り。そうしてワクワクと聖書を開く、今日はルカ18章。
朝が待ち遠しいのは「今日は何を教えてくださるのだろう・・」と、日々開かれるみことばによるのだ。

 しかし、今日は朝から出掛けるつもりだった。あまりに頭がうっとおしくてもう、放っておけなくなっていた。
やはり美容院に行ったとき「今回はだいぶ伸びましたね」って言われてしまった。
予約の電話を入れると「午後からだったら・・」と返って来て、最善に備えてくださったと落ち着いて座ることができたのだった。

 心に留まったみことばを日記帳に書き出して行く。そのための大きな日記帳は私の宝物。
聖書は何度か読み返し「これはどういう意味ですか」と主に問いかけながら読み進めて行くと、みことばはみことばによって解かれて行く。分かるまで繰り返して読む。時には間に掃除機を掛けたり・・、でも最近は、打てば響く・・そんなことが多くなった。

 早めの昼食をすませて身支度をし約束の時刻を待つ。歳と共に支度を焦るようになった。
会社に戻る息子にまで、「早く支度しないと・・」なんて何時も急かせてしまう。余計なお世話であるとはわかっているけれど気が気ではないのだ。
年寄りが気が急くのは「この世の残り時間が少ないから・・」と聞いたけれど、実は鈍くさくなって、失敗をすることが度々で手間取るからなのだ。私もそのお年頃。

 美容院は混んでいたけれど、買うことのない週刊誌が見られるので待つ事はそんなに苦ではない。
先客が次々と帰られて先生とふたりなったとき、息子さんの大怪我のことを話された。三年間手術を繰り返して来られたこと・・、手術の技術がすごいことや術後の絶対安静に命がかかっていたことなど・・。

人の器のもろさに胸がいっぱいになった。懸命な医師の努力と共にがんばる息子さんに胸が詰まった。
また、気丈に話しておられるが、その日々がどのようなものであるかは察してあまりある。
「お嫁さんが居てくれて支えになってくれました。こういう時母親は駄目です。」
「そうですね。母親って共に倒れてしまいますね。」うなずく彼女にもう言葉がなくなった。
シャンプー台でそっと手を組んで祈った。

 18章で盲人の叫びをイエスさまはきいてくださり、「あなたの信仰」といやされた。
「まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。」(ルカ18:7)

障害が問題ではなく、それによって抑圧されることは不当である。彼はその日々に正当な裁きをイエスさまに求めて叫ぶことを止めなかった。
イエスさまはその叫びを「信仰だ」と評価された。みことばだけが事実であるから彼には信仰があったのだ。

不正な裁判官に訴え続けて、動かしたやもめをイエスさまはほめられた。
やもめも盲人もその叫びは人にはうるさいものである。みことばを叫び続けることもうるさいことだと知って居る。
でも、主が失望してはならないと言われるから、切なる祈りをもって叫び続けるのである。

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