息子と聖書を読む 2007.1.27
そのとき、イエスを売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して、
「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして。」と言った。しかし、彼らは、「私たちの知ったことか。自分で始末することだ。」と言った。 (マタイ27:4)
「ユダは、パリサイ人の所に行ったのが間違っていると思う・・」息子のひとことが私には新鮮に感じられた。
「ああ、それが間違っていたのか・・『私の知ったことか!』といわれるだけだったね。」
「その後、ユダは自分で始末したことも違うと思う。死んではいけなかったんじゃないか。」
「そうだね!神様の前に悔い改めて、すべてを委ねて裁きを待つべきだったよね。ペテロは激しく泣いて、よみがえられたイエス様に会えたね。『悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。』ってあるね。」
「僕だってユダになることもあるだろう。」
「確かにそうだね、人は礼拝の時をお金に換える様なことをするよね。
イエス様はすべての人の罪を十字架で負って下さったんだものね。イエス様はユダに『友よ・・』と言われている。ユダがイエス様を裏切った後で言われたのだから、すべてをご存じで言われている、此処にユダの望みはあるね。私は、なぜこの時ユダがイエス様の前で崩れなかったのかと思うよ。」
「それは無理だと思うよ、後ろに大勢の人を連れて捕まえに来ているのだから、もう、引き下がれなかったと思う」
「そんなことはどうでもいい。イエス様の『友よ・・』のお言葉に、すべての経緯を忘れてしまって、ペテロのように激しく泣くことができたんじゃないかな・・」
息子が「死んではいけない。」と言った言葉がとても嬉しかった。
そもそも私が、イエス様に救いを求めたきっかけは、彼が小学3年生の時、障害に気落ちしてか、私の詰め込み教育に疲れてか、「僕が死ぬのは僕の勝手だろう。」と言って、毎晩激しく泣いて眠る日々が続き、私は自分の力に絶望したことからだった。
イエス様は彼の霊、魂を癒し、生きる力を与えてくださった。聴覚の障害は彼の弱さとして残し、そこに在るイエス様の助けと備えを通して、彼はイエス様を常に体験できる。私は、主のなさることの完全を知って、深い感謝と驚きを覚えた。
お祈りの時に彼は「失敗をした時、自分でなんとかしようとしますが、イエス様を忘れずに祈って待つことも出来ますように。聖書の学びをこれからも、続けさせてください。」そんなふうに祈っていたことが嬉しかった。導いてくださったイエス様に、親子で心から感謝をした。今日は忙しくて短い時間だったけれど、私には教えているはずの息子に教えられた嬉しい時間だった。
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