私には取り返しの付かない、取り戻せない「時」がある。
来客の様子がいつもの様ではないことに気づきながら、それは彼の言うように「腰の痛み」の所為だろうと考えて、お茶を出しつつも彼の顔色の白いこと、まるで初めて会った人のように堅くなって座っている様子に胸騒ぎを感じつつも、どのように接するべきか戸惑って、主人任せにして私はお菓子を・・とか、コーヒーをとか・・バタバタと台所に逃げたあの時。
彼の求めているものに気づこうともせず大切な「時」を逃してしまった。いのちに関わる「時」だったのに。あの時、お茶を置いて側に黙って座るだけで良かった。お菓子も、コーヒーも彼は求めてはいなかった。一緒にいれば次の言葉が聞けたかも知れないのに。何を言いたかったのだろう・・。私は何を聞くべきだったのだろう・・。私には確かに伝えるべき言葉があったのに・・。
主人と失った時をどんなに悔やんでも、どんなに悲しんでも、もうその「時」は二度と戻ってこなかった。
人の危急を知る感性は、マリヤのようにイエス様の御前に静まって、みことばに耳を傾ける日々によって備えられるのだろう。十字架の前にただひとり、イエス様の危機を察したその感性は、いつも主に静まって感じていたものなのだろう。そして、その感性は人に対しても、主の導きを得るとても大切なことの様に思う。何年経っても後悔と痛みを持って思い出す。
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