あなたは、民の中で人を中傷して回り、隣人のいのちを危険にさらすことがあってはならない。わたしは主である。(16)
キリスト者の中傷は互いのいのちを損なうほどに危険である。世の言葉ではなく神の名を用いて語るからである。それが神の家族に対する攻撃なら、主がご自分のものを守られるからである。
心の中で自分の兄弟を憎んではならない。同胞をよく戒めなければならない。そうすれば、彼のゆえに罪責を負うことはない。(17)
神の家族である兄弟に対して憎しみや妬みが生まれるのは、神の愛から生まれた子でありながら、どれほどに愛されているかを悟らず、あふれるばかりに注がれている愛に気づいていないからであり、勝手に貧しく飢え渇いているのだ。
聖霊はみことばに記されているすべての神の愛を、日々、事々に解き明かして、キリストの平安を満たしてくださっている。
祈りは主に届いていることを知らせ、主の応答を経験させ、孤児ではない神の家族であることを教えて、絶えずキリストのうちに居る希望と、喜びを味合わせていてくださる。
すべての富を持つキリストに在り、キリストを宿している者が、どうして兄弟を憎んだり、羨んだりする必要があるだろう。
そのような信仰の家族を戒めなければならないとあるが、キリストにある安息を分かち合うことは、何よりの戒めとなるだろう。それは、憎んでいるよりもずっと楽しいからである。妬んで生きるよりもずっと健やかに生きられるからである。
憎しみや妬みの感情は悪霊の足台となり、心の底でとぐろを巻く思いを膨らませて、隣人ぐるみ滅びに引き込む力となるのだ。
生きている人のうちには、魂も肉も活発に活動している。神はそれらを治めなければならないといわれる。
キリスト者のうちにおられる聖霊は助け主であり、絶えずみことばに繋いで思いをきよめていてくださる。それでも人はみことばを選び取らず、肉の思いを好んで離さず、聖霊の導きを無視することも出来る者でもある。
中傷ではなく主の臨在の中で交わり、みことばを分かち合って共に語り信仰をもって共に祈るなら、すべてが主の勝利の時となり、光の中にあって諸々の思いを益にしてくださる。キリストの平安に在るからである。
聖霊に導かれて主の御名があがめる所には、悪しきものは留まれない。その時すべてがキリストの赦しのうちに聖められ、もう誰も罪を負わないのだ。互いにキリストの血によって赦された者として、主を中心にして癒された関係だけが、永遠を共にする神の家族の住むところである。
憎しみを持って永遠を共にすることは、この世に在るよりも苦痛であり、それゆえ、その者は天の御国には入れないのである。
あなたは復讐してはならない。あなたの民の人々に恨みを抱いてはならない。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。わたしは主である。(18)
キリスト者には復讐は存在しない。それは、共にキリストの赦しによって生きる者だからである。人は神への反抗によって復讐される者であったのに、神は愛するひとり子のいのちによってあがない、和解して救われたことを知っているからである。
キリストの十字架によって、主を信じる者には善も悪も清算されていることを知っている。誰を責める必要もなく、誰からも責められることのない平和の中に生きており、世にある今も御国の心地を味わうキリスト者なのである。