石ころ

「これに聞け」 (マルコ9章)




六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。(マルコ9;2)

「ただペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて」と言う言葉は重い。私たちは選ばれることを求めるべきである。それは主を知りたいということだから・・。
イエス様が高い山に彼らを伴われたのは御父と御子の交わりの座を経験させるためであった。

私たちがこの世で何を聞こうと、どのような事が起ころうと、どうすれば良いのか分からなくなった時も、此処がキリスト者のホームポジションである。
主は、このように必ず愛深く語り教えてくださる。彼らのように、たとえすぐにはわからなくても後でわかるようになる。

すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」(マルコ9:7)

神様が御子に「聞け」と言われたことは、彼らが理解できないでいる「死と復活」のことである。
御父が愛する御子に計画されたことを、安心して聞き取るようにということである。そのことは全能の主から出たことであると・・。

愛する御子の命と引き替えに、神様が準備してくださった永遠のいのち。それを受けるために、たとえこの世の命と引き替えになろうとも・・とイエス様は説得される。

もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。
もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。(マルコ9:43.47)


 つまづきを与えるものとは、世の名誉やほめ言葉、目に美しいものだったり、手を伸ばせば届くものだったりするのだろう・・。この世で自己を達成して満足する者ではなく、何と引き替えることになろうとも、永遠を手にいれなさいと勧められる。

イエス様に従うことは世で栄えることではない。主は侮られ嘲られ無実の罪によって十字架で処刑された。世はエリヤを自分たちの好きなようにあしらったように、私たちにもそうするだろう・・何処までも主を選ぼうとするならば。
しかし永遠の価値を知る者なら何を選ぶかは明らかである。永遠の価値を知らない者にそれが与えられるとは思えない。豚に真珠は与えられない。

キリスト者の選択は世に大きな影響を与えるものである。それが小さな者を躓かせることになる。私たちは世には光であるからである。どんなに小さな灯りでもよく知られるのである。


 地獄の火は消えることがない。生きている間にその火で吟味され塩気を付けられるなら、私たちは正しい選択に至るだろう。
そのような者の交わりに誰が偉いかなどという議論が起ころうはずはなく、主に救われた者の平和があるだろう。

塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」(マルコ9:50)

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